第77話 記憶に無い興奮
「先輩」
「え、あ、はい」
「彼女って、誰が言ったんですか?」
「それは……」
なんだろ、雰囲気が別人のような。
「彩奈、だけど……」
「そうですか」
彼女はそう言うと黙ってしまった。
何を考え、何のための沈黙なのか、僕にはわからない。
電話だから顔も見えない。どんな表情なのかわからない。だけどなんだろう、何か大きな失敗をした……そんな気がする。
だけど、
「そうなんですね!」
そんな予感を消し飛ばすほどの明るい声が聞こえた。
テレビに出ていた女優さんの名演技のような早変わりだ。
「あっ、話は変わりますけど先輩、今から病院の外に出れますか?」
「今から!?」
随分と急だ。
廊下に備え付けられた時計を探すが見当たらない。
だけど彩奈が帰るのがいつも面会時間ぎりぎりだから、たぶん19時ちょっと過ぎだと思う。
「病室を一人で出るの止められてて」
「彩奈さんにですか?」
「うん、19時過ぎたら一人で病室の外を出歩いたら駄目だって」
「だけどこうしてメイと電話してるってことは、今って病室の外ですよね?」
「それはまあ。でも病室の側の廊下だから」
「でも約束、破ってますよ?」
「うっ。それはそう、なんだけど」
「くすくす。ごめんなさい、少しからかいすぎましたね。先輩、お願いします……。少しだけ、会って話せませんか?」
「え」
「会って、先輩の顔を見て、話しがしたいんです。お願いします、先輩」
消えそうなほど小さくて悲し気な彼女の声を聞いて、なんでだろう、無意識に唾を飲み込む。
自分でも、なんでこんなこと思ってるんだろうって気持ち悪くなるけど──今にも泣き出しそうな彼女の声で懇願されると興奮する。
「わか……った」
気付いたら返事していた。
本能がそうさせた。
「本当ですか!? 良かったぁ……っ♡」
「──ッ!」
おかしい。
何かがおかしい。
そう思っても、受話器から耳を離せない。
それどころかもっと耳元で、いや、耳の奥で彼女の声を聞きたいと思ってしまった。
なんだこれ。
──彼女は、僕のなんなんだ?
「それじゃあ、今から病院に行きますね。10分……あっ、15分ぐらいで着くと思います」
「あ、うん。じゃあロビーで待ってるね」
「はい! あっ、温かい格好してきてくださいね」
温かい?
疑問に思ったが口に出さず、わかったと返事をして受話器を置いた。
電話を止めたのにまだ彼女の声が耳に残ってる。
公衆電話に視線を落としたまま、少しの間ボーっとしていた。
「あっ、もう一人に電話しないと」
知らない男の人に渡されたメモにはもう一人の女性の名前と電話番号が載っていた。
こっちの人にも電話しないとだよな。
だけどメイとの電話でのやり取りも少し時間がかかった。
記憶が無くなる前は仲が良かったのだろう。ってことは、この燈子って女性もそうだろう。
だったらメイと会うまでの間の15分で電話するのは難しい。
「消灯時間までまだ少しあるから、申し訳ないけどメイと会った後にしようかな」
メモ紙をポケットにしまうと、僕は言われた通り温かい格好をしてロビーへと向かった。
♦
面会終了時間の19時以降にロビーに、それも一人で来たのは初めてだ。
薄暗い明かりのロビー。受付だけ眩しい。
「あれ、橘さん?」
受付の近くを通ると受付の女性に声を掛けられた。
「どうかしましたか?」
「えっと、ちょっと知り合いと」
「面会時間は過ぎてますよ?」
「えっと」
やっぱり面会時間が過ぎてから誰かと会うのって駄目なのかな。
そんな風に思いながら返事に困っていると、
「もしかして早瀬さんですか?」
「え」
「忘れ物があって会いに来たとかですか?」
「あー、はい、そうなんです」
咄嗟に嘘を付いてしまった。
だけどそれが良かったのか、受付の女性の不安げな表情は消えた。
「そうだったんですね! わかりました。彼女さんが忘れ物を届けてくれて、そこでばいばい……で、終わらないかもですね。ふふふ、消灯時間までには帰ってきてくださいね」
「あはは」
なんだか甘い展開を勘違いしてるみたいだけど、話を合わせておいた方がいいようだ。
それから、受付の女性にこっそりと個室階層の見回り時間なんかを教えてもらった。
……見回りにバレないように、彼女さんと夜遊びを楽しんできてください。
みたいな意味合いなのかな、これ。
今さら彩奈じゃなかったなんて言えず、苦笑いを浮かべながら病院を出た。
「少し寒いな」
パジャマの上に温かいジャンバーを羽織っただけだからな。
少し前まで半袖でもいいぐらいの夏だったらしいのに、今はもう9月の終わり。
「まあ、その夏の思い出も消えちゃってるんだけど。はあ、何してたんだろ。お祭りとか行ったのかな?」
テレビで見たお祭りと花火。
彩奈に聞いたら『毎年一緒に行ってる』って言っていたけど僕には記憶がない。
写真とか残っていたら良かったんだけど、彩奈は見せてくれなかった。カメラが壊れてたのだろう。
それに、
『退院したらいつでも行けるから』
と言ってくれた。
失った記憶は取り戻せないかもしれないけど、これから新しく思い出を作ればいい。
彼女と、共に。
「──先輩!」
そんなことを考えているとふと声をかけられた。
振り返ると、そこには微かに頬を赤く染めた女性がいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます