第72話 正しいかどうかはわからない



 記憶喪失の人間なんてフィクションの世界でしか実在しない架空の存在だと思っていた。

 何らかの事故で記憶が丸々消える……なんてありえないと。




「冗談、とかじゃないんだな?」




 子供の頃からの長い付き合いとかではないが、それでも普段の恵と目の前の恵が別人なのは見てわかった。

 こんな面白くない嘘を付くタイプでもない。


 黒鉄は病室には似つかわしくない座り心地の良さそうなソファーに腰掛ける。




「俺のこと知らないのはいい。で、いつからの記憶が無いんだ?」


「いつからというか、その……全部、ありません」


「はあ、全部? ちゃんと会話できてんだろ、日本語覚えてんだろ」


「それは、まあ」




 年を取って、幼稚園の頃に好きだった子の名前やその子と話した内容、それに思い出がパッと浮かばないのと同じ感覚なのだろうか。

 記憶はないが言葉や物書き、そういった常日頃から使っていたものは脳じゃなく体が覚えているという感じか。




「脳科学者とかじゃねえから、こんなこと考えても意味ねえってな」




 恵と話せる時間は限られている。

 本来の予定からだいぶ狂ってしまったが、燈子が彩奈を引き付けてくれている間に要件を伝えなくてはいけない。




「俺が誰かとか自己紹介する気はない。まあ、お前のともだ……悪友みたいなもんだ」


「悪友?」


「そうだ。で、まあ……」




 話そうとしたことはすぐ頭に浮かんだ。


 ──お前に会いたがっている女が二人いる。


 だが、黒鉄はふと考えた。

 橘恵の人生、このままの方が幸せなんじゃないか、って。

 厄介な女性二人に好かれ、どっちかを選ぶか、どちらとも選ばない人生に戻すより、ここで幼馴染と過ごす生活を送った方がこいつにとっては幸せなんじゃないかと。


 メイと燈子には申し訳ないが、今の生活の方が”普通”に見えた。




「はあ、めんどくせぇ」




 それを決めるのは黒鉄じゃない。




「この本、借りるぞ」




 恵の持っていた本を借りると、そこら辺に転がっていた鉛筆で数字を書く。




「え、何を」


「メモ帳なんて持ってないんだよ。お前、スマホあるか?」


「ありません。事故で壊れたって、彼女が」


「……そうか。だがこの階に公衆電話あったろ。一人のとき、ここに書いた番号に電話しろ」


「電話? いや、電話って、どういうことですか? よくわからないんですけど」




 どうすれば記憶が戻るかなんて知らない。

 記憶喪失の恵にメイと燈子に電話させたところで記憶が蘇るとも思わないし、事態が好転するとも思わない。むしろ悪化する気もした。

 メイなんかは記憶喪失なのを知ったら、今より頭に血が上って強引に奪い返しに行くかもしれない。

 それこそ、警察のお世話になりそうだ。


 だが、どっちにしても決めるのは恵だ。




「ここに電話したら、お前の記憶が蘇るかもしれないな」


「え、本当ですか!?」


「まっ、知らんけど」


「えぇ……」


「ってか、元のお前ってそういうなよなよしい奴だったんだな」




 きっと今の恵は歪む前の性格なのだろう。

 黒鉄が初めて出会った時には既に今の面影は消え、死人みたいな顔をしていた。


 だから今の恵と接するのは、なんだか赤の他人と会話しているように感じた。

 それと、こんな恵だったらつるむことはなかっただろうなとも。




「じゃ、俺は帰るから」


「帰るって、でもこれ、誰の電話番号なんですか?」


「電話してからのお楽しみだ。あと、連れの女に俺が来たこともその電話番号のことも話すなよ」


「どうしてですか?」


「なんでもだ」




 二人がただのタレントとマネージャー、もしくは幼馴染の友達ということで進んでいるのか不明だ。

 そもそも誰とも会わせないようにしている時点で電話なんて許してくれるはずがない。

 それを、何も知らない恵に説明して理解させるのは難しい。


 黒鉄はそれ以上は話さず、抜け殻のようになった恵に別れを告げた。















 ♦

















「と、いうわけだ」




 黒鉄の説明を聞き終えた燈子は出されたコーヒーに口を付けようとして止め、大きく息を吐く。




「じゃあ、スマホは肌身離さず持っていた方がいいわね」


「番号は教えたが、電話が来る保証なんてないぞ?」


「それでもよ。現状、待つしか可能性はないでしょうから」




 悲しそうに、だけど希望が見えたように微笑む燈子。

 そんな表情もできるのかと感心したが、すぐにまた澄まし顔に戻った。




「とはいえ助かったわ、ありがとう」


「へえ、素直にありがとうなんて言えるんだな」


「今回の件に関しては感謝してるわ。まあ、勝手に人の秘密をばらしたあなたは嫌いだけど」


「はいはい、そうですか」




 これで要件は終わった。

 燈子は帰るのだと思ったのだが。




「そういえば、あなたって恵くんとどうやって知り合ったの?」


「ん、あいつとか?」


「同じ大学というわけではないわよね? あなたみたいな頭悪そうなのが大学なんて行こうと思うわけないもの」


「しかも神宮寺とか神崎みたいなゴミでも入れた二流大学だしな。金の無駄だ」


「それもそうね。それで?」


「あいつから聞いてなかったんだな」


「恵くんからってこと? 聞かないわよ、そんなこと。そもそも彼と二人でいるときに私が他の男の話しなんてするわけないでしょ」


「はいはい」


「それに大学のことってなると、泥棒狐との馴れ初めを聞くことになるもの」


「俺から聞くってことはその馴れ初めを聞かされることになるが?」


「恵くんからじゃなければ他人事だと思うからいいわ」


「なんだそれ。じゃあまあ」




 黒鉄は思い出しながら話し始めた。












 ♦















「……しゃっせー」


「……」


「温めっすかー?」


「……」


「……あのー」




 大学から少し離れたところにあるコンビニ。

 バイト先のコンビニに、今にも死にそうな顔をした青年がおにぎり二つを持ってレジに立っていた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る