第10話 緑の目玉

 夕刻となり、守親が内裏から帰って来た。父紗守はまだ帰るまでかかるということで、紗矢音は兄を相手に木刀を振るう。

「やあっ!」

「──ふん、まだまだだなっ」

「あっ」

 カンッという軽い音がして、紗矢音の木刀が宙を舞う。守親によって撥ね飛ばされたそれは、くるくると回って地面に突き刺さった。

「……くっ。まいりました」

 紗矢音は悔しそうに眉を寄せ、木刀を拾う。彼女の姿は何枚もの単を重ねた衣ではなく、狩衣に近いものだ。本来ならば女が身に付けることのないそれを、守親と明信が父に内緒で用意してくれた。

 長い髪は一つに束ね、白い紐でくくっている。それでも余りあるが、仕方がない。そもそも姫が男のように刀を振り回すなどという事態を想定されていないのだから。

 頬を伝う汗を拭い、紗矢音は兄を振り返った。彼は木刀を手に持ちながらも、少し楽しそうに笑っている。

「兄上?」

「いや、何。始めはお前が刀を持つことには反対だったんだがな……やってみて、楽しくなってきた。大姫と明信と、二人となら何とでもなるだろうな」

「買いかぶり過ぎ、と言うことはやめておきましょう。――ふふ、兄上にそうおっしゃって頂けることは嬉しいことですね」

 もっと腕を上げなければ。そう言って紗矢音が微笑むと、守親は「ならば」と木刀を上げてみせた。

「俺はお前を、明信を、千年桜を守るために強くなろう」

「わたしも負けません」

 カチッ。二本の木刀がぶつかり合い、互いへの鼓舞の音となった。


 その夜、父と兄と共に夕餉ゆうげを終えた紗矢音。自室へ戻り明信に借りた巻物を紐解いていたが、ふと几帳を出て夜空を見上げた。

 夕餉の席で、明信から式による知らせが来たことを聞いた。それによれば、彼女らが訪れた廃社の本殿に怪しげな紙片が捨て置かれていたと言うのだ。紙片に明信の式は触れることも出来ず、仕方がなく彼の師を呼ぶという。

(明信どのの師といえば、山に住まいされている正輝どの。……最後に会ったのは、何年前だったかな)

 正輝と紗矢音は面識がある。明信にくっついてこの邸に遊びに来た正輝と、守親・紗矢音の兄妹は話をしているのだ。その時は話しやすい人だと思ったに過ぎなかったが、後で彼の陰陽師としての技量を聞いて驚いたものだ。

 当代随一の力を持つ陰陽師。それが、正輝に対する世間の評価なのである。

 正輝が来てくれるというのならば、きっと大丈夫だ。紗矢音はそう結論付けると、廃社よりも先に訪れた廃寺のことが気にかかった。

 あの時は何者にも会いはしなかったが、桜に呪をかけた張本人が気配を残したことだけは間違いない。ならば、可能性はあるのではないか。

(もしも今からそこへ向かったら、手掛かりくらいは残っていないかな。何もないなら、それも一つの手掛かりにはなるだろうし)

 そんなことを考え始めると、紗矢音は次の瞬間には唐櫃を開けて中身を出していた。そこに入っていたのは、狩衣に似た衣だ。

 紗矢音はさっさと女物の衣から狩衣に着替えると、家人も誰もいないことを確かめて塀を乗り越えた。庭の木を使えば、紗矢音には難しいことではない。

 その時、紗矢音の傍から一羽の蝶が飛び立った。音もないそれに気付く者はない。

 夜闇に沈む都には、歩く人も牛もない。明かりもなくただ月と星の光のみが照らす夜は、最も都が静かな時間となる。その静けさの中、一人分の軽い足音が駆けて行く。

 前回は明信と二人だった。彼を追っての道行きだったが、今回も道を覚えている。

 紗矢音は一本の小路を間違えることもなく、目的の廃寺の前にやってきた。荒れる息を落ち着かせ、あばら屋同然の門をくぐる。

「……っ」

 息を呑み、それから紗矢音は奥へと進む。石畳を踏み、仏も去った本堂を覗き込んでみた。

「暗くて、わかんないな。……ん?」

 暗がりの中で、何かが動いた気がした。その正体を探ろうと格子戸に顔を近付けた時、と目が合う。

「……」

「……」

「……きゃあっ」

 ぐりんっと大きな目玉が回った。緑色のそれに見詰められ、紗矢音は思わず悲鳴を上げる。

 悲鳴が引き金となったかのように、その目玉は跳び跳ねる。そして本堂の格子戸を破って外へ飛び出した。

 紗矢音は身を伏せてその衝撃から身を守ったが、吹き飛ばされて地面にしりもちをつく。そこで痛がる暇さえ与えられず、すぐに体を捻った。

 体があった場所に、鎌鼬で削られたような跡が残る。振り返るとあの目玉の大きな化生が着地しており、紗矢音はさっと顔色を変えた。

(あれは、何? 術師が置いて行ったの?)

 見たことも聞いたこともない、不気味なモノ。おそらく明信の言うような化生の類いだが、黒い毛皮に覆われた丸っこい体から鎌のような刃が伸びる。それを振り回し、ギョロリとした目玉で紗矢音を捉えた。

「キシャッ」

「──っ!」

 紗矢音は持っていた鍛練用の木刀を正眼に構え、化生の鎌を受け流そうとした。しかし当然、木刀等は刃の敵ではない。

 鋭い鎌に臆して首をすぼめた直後、木刀は無惨にも真っ二つにされていた。カンッと木刀の先が地面に転がり、紗矢音は顔面蒼白になる。

(嘘……ごめんなさい、兄上っ)

 目玉が紗矢音の急所を探す。その目がゆっくりと動き、鎌が自分の首を狙っていることが明白となる。紗矢音は跳び上がった化生を見上げ、それから固く目を閉じた。

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