5 美しい世界

 学校の授業が始まった。

 ゾーイはジアと同じクラスで、彼女が同じ空間にいるだけで俺はなんだか安心できた。クラスの男女比は半々。やはり誰を見ても個々人の端正な顔立ちが気になってしまう。広い敷地をゆっくり歩いて教室に向かったものだから、席についた時にはもうチャイムが鳴った。ここまで時間がかかったのも無理はない。教室に向かうまでの間、俺はジアからこの世界の暗黙のルールを学んでいたからだ。


 先生が入ってきて授業が始まっても、俺の気はそぞろなままだった。最初の授業は世界史。これは昨日一日かけて十分すぎるくらい学んだ。そのせいもあってなかなか授業に身が入らない。それよりもジアから聞いた話の方が興味深かったからだ。

 はっきり言ってしまえばこっちの世界ではゾーイやジアのような容姿の方が珍しい。

 俺の視覚情報が偏っていたわけでは決してなかった。


 ここでは超がつくほどの端正な容姿は珍しいものではなく、むしろスタンダードだというのだ。その中でももちろん個人の好みは分かれると思う。けれど平均が高いせいか容姿のことで妬んだり人間関係に亀裂が起きたりとかはまったくないそうだ。どこを見ても美が待っている。勿論本人も例外ない。そりゃ心の余裕もできるだろう。


 ルッキズムが問題視されてきた現代社会にいた俺にとってはなかなかのカルチャーショックだった。容姿による差別がないなんて俺には考えられないことだからだ。

 が、だからといってこちらの世界でも容姿に関する美醜の意識がないとは言えない。

 正直、今の俺は藤四郎よりもマシになったとはいえ、どう高く見積もってもぶさかわ猫から抜け出せない。

 周りと比べたら月と鼈どころではないかもしれないくらいに見える。


 俺としてはゾーイの顔はもう見慣れたし、むしろこのふてぶてしさが可愛いとまで思ってきた。最初は変に期待しすぎたせいで勝手に落ち込んでいたけれど、今となってはそんなことはない。

 ゾーイは可愛い。でも、こんな世界ではやはり苦労してしまう。

 こっそりジアが教えてくれたことだけど、二人が自然と仲良くなったのもやはり周りとは比べられない容姿を引け目に感じたコンプレックスによるものだった。互いに仲間意識が芽生え、当然のように親友になった。俺はジアも十分可愛いと思うんだけど、本人はそうは思わないらしい。


 そして俺が登校中に容姿の話を持ち出した時にジアが慌てていた理由も話してくれた。

 どうもこの世界では自分を含めて容姿のことに言及するのはご法度。人間とはみなされないほどの愚行として扱われるそうだ。暗黙の認識とかそういうレベルじゃなくて、もう細胞の隅々まで根付いた常識なのだとジアは口を尖らせた。

 でも鏡を見ればいつだって自分がそこにいる。

 容姿のことをまったく考えないで生きることなんて不可能に近い。理想を描いてしまうのは自然のことだ。


 口に出すのが駄目でも、写真の加工とかでちょっとでも夢を見るのは許されるのかと訊いてみた。

 しかしジアは厳しく首を横に振ってこう言った。

「加工も整形も、人類への冒涜だから禁忌だよ!」

 キビシイ。

 じゃあ、そこまで言うのなら無意識下での差別とかはないんだよねと単刀直入に尋ねた。

 俺の経験上、容姿がネックとなってバイトも限られたし、就職試験にだって苦労した。

 個人同士での容姿いじりがないにしても、口に出さずしてバリアを張られることだってあるのだ。


 加工すら駄目なんて崇高なことを主張するのであれば、もちろんそこのところは何の問題もないんだよね?

 それが確認したかった。

「はははっ。何言ってるの。私たちみたいなのは土俵に乗れないことのほうが多いじゃない」

 ジアは俺の肩を叩きながらやけくそ気味に笑っていた。


 なんだそれ。

 加工も整形も許されず、ありのままで生きていくことを強制されるのに?

 選択肢もないままに俺たちは土俵から弾かれるのか?

 とんだ遺伝子ガチャ。

 生まれる前にすべてが決まる。

 人間以下の愚行も、黙っていれば許されるとでも?


 ふつふつと俺の心に怒りが灯った。

 お高くまとまっておきながら臭い物に蓋をするのは俺が一番嫌いなやり方だ。

 しかも俺たちはそれに反論することもできずにただ逆らえない仕組みに組み込まれていくだけ。大多数はこの悔しさを知らない。だから俺が一括りに女を見ていたように、そもそもの問題を認識すらしていないかもしれない。いや、もはや問題なんて大層なものじゃないんだろう。


 ぶさかわ猫やナマケモノは、ひっそりとどこかで生きていればいい。そう思われているのかもしれない。

 ジアはしょうがないよと笑っていたが、本当は彼女だってそんなことは思っていないはず。

 遺伝子ガチャに外れました。ご愁傷様。

 そんな言葉で片づけられてたまるかよ。


 握りしめたペンに力が入り、ノートにはインクが滲んでいく。

 顔を上げればイケ渋ダンディな教師が映画の吹き替えみたいな無駄に良い浮いた声で歴史を語っている。

 こいつらには彼女たちの苦労は分からない。

 少しだけ彼らと外見が違うだけで、歩む人生に置かれる障害物の差がありすぎるなんてやっぱり認められない。

 どの世界にいたって俺は虐げられることから逃れられないのだろうか。


 ぎりぎりと歯ぎしりをする。

 しかし悔しいことに、恐らくゾーイが自殺を図ったのは容姿による虐めとかそういうものではないというのも知ってしまった。

 細胞レベルで規律が染み込んだこの世界の住人たちは容姿が劣っていようと彼女のことを虐めるわけがない。

 ついでに言えば、皆は容姿に関してそこまで悩みを抱えていない。


 そのおかげか人間が持つ特有の悩みの一つが消え、彼らには余裕がある。

 容姿以外のことでも虐めとか醜い競争とかあんまりない世界だから、心が歪む機会も少ないらしい。

 だからか基本的に皆の性格は良いという。

 美しい上に性格も良いとか、藤四郎だったら嫉妬のあまり虚しくなってしまいそうだ。

 流石は争いのない世界。なんとまぁ美しい。

 だがそんな風光明媚な世界にもかかわらず、彼女は自殺しようとした。


 どんなに取り繕おうと、世界の均衡を守るために踏み躙られていく人がいるものだ。

 虐めが原因でないとすれば、彼女が自殺した原因は猶更分からない。

“あなたを勝手に信じた私が惨めだった”

 この文章から、俺はてっきり彼女は友だちとかに裏切られたのかなって思っていた。それで、裏切られたというくらいだから誰かに酷いことをされたのかなって思ったんだけど。


「違うのかな……」


 頬杖をついてぼそっと呟いた。

 誰も俺の声になど耳を傾けない。多分、彼らの耳には入っていない。

 ああ。モヤモヤする。

 俺のことを取り囲んでいるのは煌びやかな一級ダイヤモンドばかりなのに。

 どうしても俺には、彼らの輝きがくすんで見えてしまう。

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