第38話「夢と誇り」



「あー、しまったなぁ……」


 土曜日の昼下がり、僕は近所コンビニの入り口で立ち往生してしまう。力強い大雨が行く手を阻み、アスファルトを湿らせる。天気予報をちゃんと確認していなかったのが悪かった。コンビニで肉まんでも買いに行こうと思ったのだが、まさかこんなことになってしまうとは。

 すぐ徒歩で帰るつもりだったため、傘は持ってきていない。ビニール傘を買おうにも、不幸なことに肉まんを買ったことによって、僕の所持金は二桁を下回った。財布の中は現金のみで、カードは持っていない。いっそこのまま走って帰ろうか。風邪を引くことは避けられないかもしれないけど。


 参ったなぁ……彼と対決する前日に、風邪でも引いたら面目が立たない。




“優樹君が勝ったら、志乃のことは君に託す。それでいいね?”


“ああ、望むところだ”


“それで、何で勝負する? 俺は何でも構わないよ”


“……居合だ”


“え?”


“居合で勝負しよう。泰士君、得意なんでしょ?”


“別にいいけど……”


“いいよ。絶対に勝ってみせる!”




 そして、僕は明日、泰士君と居合で対決することになってしまった。よりによって、泰士君の一番の得意分野である居合だ。他の対決手段はいくらでもあったけれど、僕はあえて彼の専売特許を持ちかけた。

 仮に僕の特技で……といっても何も思い付かないのだけど、それで勝負に勝ったとしても、僕のプライドが納得しない。顔も力も知性も圧倒的な彼と同じ土俵の中で戦い、完全な勝利を収めたい。でないと男の意地が許さない。


「ハァ……」


 だが、勢い任せで居合勝負を持ち出したことを、今になって後悔している。当然僕は刀なんて一度として握ったことはない。運動はからっきし苦手というわけではないけど、力だけなら断然泰士君の方が上だ。日本刀で自動車のタイヤを切断してしまうのだから。あそこまで行くと、もはや化け物だ。


「どうしよう……」


 僕は淀みきった雨雲を見上げる。灰色の空が勝利の糸口を示してくれるはずなどなく、ただひたすら大粒の雨を流すだけだ。無機質な世界は僕の味方をしてくれない。




「……君、傘ないの?」


 ふと、横から声をかけられた。薄手のクリーム色のコートを着た女性が立っている。黒のショートヘアーで、頭の天辺にアホ毛が生えている。言葉が悪いけど、一瞬間抜けな印象を抱いてしまった。


「え……」


 しかし、失礼な思考は瞬時に崩れ去った。彼女の左目に眼帯が巻かれていた。視界に映っただけで凄く痛々しい光景だった。そんな異質な恐怖とは真逆に、彼女は雨雲を切り裂く太陽のように微笑みかけてくる。


「あ、はい……もうお金がなくてビニール傘も買えなくて……」

「家はこの近く?」

「はい……歩いて7,8分くらいのところです……」

「じゃあ送ってくわ」

「え!?」


 僕は目を丸くして女性を見つめ返した。彼女は自分のバッグから折り畳み傘を取り出し、バサッと広げる。まさか送ってくれると言いだすとは思わなかった。

 見ず知らずの人に付いていってはいけないと習った小学校の知識も、初対面の不老不死の男性と熱海観光を経験した僕にとっては、もはや意味を成さない。びしょ濡れで帰宅する時の気持ちを想像して鳥肌が立ち、僕は女性の傘に入れてもらった。




「わざわざすみません……」

「いいのよ。雨の日に傘を差して外出するのも、結構いい気分転換になるし」


 自宅まで軽い雑談を交わしながら歩く。女性はとても気さくな人だった。わざわざ雨の日に、何の目的もなしに外出することが気分転換だなんて変わっている。ミステリアスな大人の雰囲気と、無邪気な子供らしさが合わさっていて、まさに子供と大人を足して2で割ったような人だ。


「それにしても、君……何か悩んでいるように見えるけど?」

「えっ……」

「片目しかないからって、ごまかせないわよ♪」


 眼帯を巻いた左目を指差して笑う女性。生々しい傷をそんなに明るく見せびらかされると、ちぐはぐな気分になってくる。だけど、事実僕の悩みの存在を見抜く鋭さを備えている。この人は一体何者なんだろう。


「えっと……どうしても勝ちたい相手がいるんですけど、その人の得意分野で戦うことになって、僕……どんくさいから勝てる自信がなくて……」

「うん、なるほどねぇ」


 女性は僕の言葉に深く相づちを打つだけで、そこから特に聞き出してくることはなかった。相談に乗ってくれる雰囲気らしいから、大人として何かアドバイスを送ってくれるのかと、僅かながら期待してしまった。


「どんなに強い相手でも、諦めない心があれば少しでも勝てる可能性はあるものよ」

「そういうもんでしょうか……」

「そういうもんよ。勝ちたいんでしょ? 絶対負けたくないんでしょ? だったらその思いを、最後まで全力で貫き通してみなさい。力で上回れないのなら、心で勝るしかないんだから」


 女性の言葉はだんだん真剣味を帯びていった。まるで数多くの戦争を潜り抜けた歴戦の勇者のように、真っ直ぐと遥か未来を見据えるその視線に、僕はあっという間に火を点けられていた。流石経験豊富な大人の言うことは、言葉自体に力が宿っている。不思議な人だ。

 彼女の言葉に夢中になっていると、いつの間にか自宅の前にたどり着いていた。魔法がかかったように時間が過ぎていた。


「あ、ありがとうございました!」

「ふふっ……あ、もしお礼がしたいのなら、我が社の作品を応援してね♪」


 そう言って、彼女は一枚の名刺を渡してきた。ちゃっかりしてるなぁ。でも、もっと心に余裕ができたら応援しよう。僕は深く頭を下げて、彼女を見送った。




浅香夢あさか ゆめさん……」


 僕は名刺に書かれていた名前を一読する。この名前……どこかの映画のエンドクレジットで見たような……。








「父さん……」

「どうした、優樹」


 僕はリビングで新聞を読んでいる父さんに声をかける。父さんが今日一日非番でよかった。毎日警察官の仕事に追われており、せっかくゆっくりできるという時に頼んで申し訳ない。だが、この事態を乗り越えるのに最も大きな力を貸してくれる人であることを思い出し、頼まずにはいられなかった。


「頼みがあるんだ」

「あぁ」




 事情を説明した僕は、なぜか和室に案内された。父さんの大きな背中を、僕は静かに付いていく。


「これって……」

「これは父さんが昔使っていたものだ」


 僕と父さんは正座して対峙する。父さんは床の間に飾られていた西洋の剣を取り、僕の目の前に差し出す。和室に洋風の聖剣を飾るのは、何とも不釣り合いだ。

 鞘を取り外すと、少々錆び付いてはいるものの、鋭い刃がギラリと輝いていた。普段何気なく飾られていた剣で、特に気にしていなかった。まさか本物の剣だったなんて。しかも、昔使っていたとは……。


「使っていた?」

「フォーディルナイトで騎士として働いていた時……まぁ、話すと長くなるから、詳しくは時が来たら話す」


 フォーディルナイト……。泰士君が行方不明になっていた間の過去を話した時に、その言葉を聞いたような気がする。どうして父さんがその場所で、しかも騎士として働いていたのかは分からない。それでも、父さんの背景にも並々ならぬ壮絶な過去が隠されていることを感じる。


 父さんは聖剣と共に飾られていた木刀を手に取る。そして、袖を捲ってこちらを振り向く。何となく父さんの言いたいことが分かったような気がする。


「その剣を使え。俺が相手をしてやる」




   * * * * * * *




「はぁ……重かった……」

「雨止んでよかったね」


 凛奈と優里が、パンパンに膨れ上がった買い物袋を玄関に置く。買い物から帰宅し、重い荷物の運搬から解放された優里は、歳寄りのようにリビングに腰を下ろす。




 バシッ


「え?」


 すると、静かだった浅野家の廊下の奥から、何かを叩くような鈍い音が聞こえた。凛奈と優里は驚いて表情を強ばらせる。家には優樹と陽真がいるはずだが、一体何をしているのだろうか。二人は恐る恐る音が聞こえた庭の方へと様子を見に行く。


「ハァ……ハァ……ハァ……」


 二人は言葉を失った。優樹は汗だくになりながら、裸になった上半身を縁側にもたれさせ、息を切らしていた。よく見ると背中や脇腹の所々に薄く赤い痣ができていた。何か固い物で叩かれたような傷跡だった。


「父さん……何やってるの……」

「……」


 その何かは、隣に座っている陽真が握っている木刀であると、優里は瞬時に察した。端から見れば、行き過ぎた暴力と捉えられてもおかしくない光景だった。父さんは帰ってきた二人を見つけても、表情一つ変えず落ち着いた様子だった。


「優樹!」

「姉さん……ハァ……僕は……大丈夫……だよ……」

「え?」


 慌てて優樹に駆け寄ろうとした優里だが、弟の制止を聞いて立ち止まる。オレンジ色に染まる夕日が、優樹の背中に布団を被せるように差し込んでくる。優樹の様子から、陽真が一方的に痛め付けているわけではないらしい。

 だが、妻や子供にとても優しく、慈悲深い愛に溢れていた陽真が初めて見せた態度に、優里は動揺を隠せなかった。


「陽真君……」


 そんな中、凛奈だけは戸惑いながらも、鋭く、だが暖かみも感じるような眼差しで、何かを察しているように陽真を見つめていた。


「優樹、大丈夫か?」

「ああ……ありがとう……まだまだだけど……少しだけ……強くなれた気がするよ……」


 優樹は体を蝕む傷に苦しみながらも、陽真に不器用な笑顔を見せた。厳しく稽古を付けてくれた父親に感謝する。陽真も優樹の体に痣を増やすことに罪悪感を抱きながらも、彼が本気で戦ってほしいと頼んだ誠意に全力で応えた。


 陽真は優樹の頭をそっと優しく撫でた。


「優樹、お前は俺の誇りだ」

「父さん……ありがとう……」


 優樹は父親の優しさに感動し、大粒の涙を流した。


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