◇澤田隼八の時間軸


 あの時の悔しかった苦い初恋が塗り替えられた。ピンクのパーカーを着ていた栗原さんは桜の花のようで、僕の初恋も桜の花のように咲き誇った。

 今はまだこの桜を散らしたくなくて、栗原さんの事を思っていたい。

 寝る前にスマホを取り出し、もう一度栗原さんの画像を確かめる。

 いつでも会いたくなったら僕には栗原さんの画像がある。それがあの不思議な空間での出来事を、常に夢じゃなかったと肯定してくれるはずだ。

 スマホの画面をタップしてスライドするのだけれど、「あれ?」っと思わず声が出てしまう。

 一度確かめてちゃんとあったはずなのに、何度探しても撮ったはずの画像が見当たらない。

「えっ、まさか間違って削除してしまったのだろうか。そんな」

 横たわっていた布団から起き上がり、真剣にスマホを操作する。

 絶対に削除なんてありえない。だけどいくら探しても、あのふたりで撮った画像が見つけられない。

 突然スマホから自然消滅してしまった。

 栗原さんのメールアドレスも登録したはずなのに、それも見当たらない。送信履歴も消えている。何度探してもその結果は同じだった。

 あの空間で撮った画像はこっちの世界では残せないのだろうか。

 あの画像を見たときは、まだあの空間の名残があったから見る事ができたのだろうか。

 メールもトラブルなく送信したと思ったけど、あの時点で消えてしまったのかもしれない。

「そんな……」

 画像を失ったと知った今、急に心細くなり、僕は何かを抱きしめたい衝動に駆られた。

 この僕がいる世界ではパラレルワールドで出会ったふたりの証拠は残せない。

 その事実に気がついた時、大切なものを無理やり奪われたみたいに、それはとても残酷に僕を締め付けた。

 我慢できなくて枕をサンドバッグのようにして何度も叩いた。悔しさは虚しさに変わり、やがてそれは悲哀となって、僕は枕を抱きしめて惨めさを労わった。

 あの空間は一体なんだったのだろう。徐々に広がっていった見えない壁から急に見えるようになった白い壁。知らない間に押しつぶそうと移動して、まるで僕たちをあの空間から追い出そうと容赦なく閉じていった。

 考えても仕方がないのだろう。そこには意味がなくそういう条件がそこにあっただけだ。空間のひずみが大きくなった後は萎んで最後は消えていく。時空の歪みというものはそういうものだったのだろう。でも冷静に考えたらやはり僕があの空間を作り出したのかもしれない。そしてそれは僕に二度目の初恋をやり直すチャンスでもあった。

 栗原さんがバスに乗るか乗らないかの選択する分岐点を僕はしっかりと見ていたことも影響し、僕はずっと栗原さんが生きていると思い込んだ。事故をなかったことにした思いが、あの時、時空の歪みとして表れたのかもしれない。

 あれやこれやとその理由を考えるよりも、僕はあの空間で栗原さんと過ごした事をいつまでも覚えていたい。

 一晩寝てしまって翌朝になれば、夢と現実の境界線があやふやになっていく恐れを感じる。それが毎日繰り返されれば、いつか薄れてしまうのだろう。消えた画像と同じで、この世界線の現実にはあの出来事は必要ないとでもいうように――。思わずため息が漏れた。

 この世界では存在しない栗原さん。でも僕の思いは募っていく。

 僕は栗原さんが初恋の人だと伝えたけど、ちゃんと好きだと正式にいえなかった。

 僕の気持ちは伝わっただろうか。

 栗原さん、君の作るお弁当をもってデートがしたかった。そして僕の口から好きだと告白したかった。もし僕が好きだと叫んだら、その時君はどんな顔をしてどんな言葉を返してくれるんだろう。

 そんな事を想像しても今の僕には慰めにもならなかった。いつまでも心に切ない思いが溢れてくる。少しでも紛らわそうと、何度もため息でその思いを吐き出そうとしていた。そうやって夜はどんどん更けていった。


 ◇栗原智世の時間軸


 朝起きたら、自分が体験した事が夢のように、あやふやになってしまっていた。

 ずっと留めておきたいのにすぐに薄れて行くこの感覚が嫌で、自分でもどう対処していいかわからない。本当に起こったことだったと確信したくて私は決心する。もう一度、あの路地から商店街の中に入って確かめるんだ。

 身支度を済ませたあと、私はピンクのパーカーを着て同じ場所へと向かった。

 何かがまた変わるんじゃないかと期待しながら、そこで暫く突っ立っていた。

 不自然に突っ立っている私を、行き交う人が不審者みたいに見て過ぎ去っていく。路地に近い婦人服店のオーナーらしき年老いたお爺さんが店から出てきて、私を怪しんだ目でハタキを振りながら露骨にじろじろ見つめた。

「あんたそんなところで何をしている」

 商品を万引きするとでも思ったのだろうか。誤解されるのが嫌なので言い訳をする。

「あの、人を待ってるんですけど、この辺で高校生くらいの男の子を見なかったですか?」

「さあ、そういう子はこの辺よく歩いていると思うけど」

「背が178cmあって、ひょろっと細めで、いつもニコニコしているような男の子なんです」

「さあ、詳しく言われても、わからんな」

 商売人にしてはぶっきらぼうで感じが悪い。自分の不審な行動が心証を悪くしたに違いない。それでもちゃんと答えてくれたから敬意を一応払う。

「そうですか。ありがとうございました」

 頭を下げながらも、無駄な努力だったというのは内心わかっていた。それでもまだ何かが起こるかもしれないとどこかで期待すると、そこから離れたくなくなってくる。気持ちだけがぐっとこみ上げて、目が思わず潤んでしまった。どうしていいかわからないまま、少しモジモジしているとお爺さんが言った。

「なんか事情がありそうだし、気になるんだったら、納得するまでそこで待ってるがいい。どうせ、ここの商品はあんたの趣味には合わんだろうし、そこにいたところで何も心配してないから」

 パタパタとまたハタキをかけて店の奥に入っていった。

 愛想が悪いと思っていたことが申し訳なくなるほど、いいお爺さんじゃないかと心が温まった。

 お爺さんの計らいでもうしばらくそこに立っていた。どれくらいそこで待っていたのだろう。

 結局、澤田君に会うこともなかったし、誰もいないあの別の空間に再び入れることもなかった。トイレにも行きたくなってしまい、やっと諦めがついたところで商店街をあとにする。

 澤田君に会いたい。また楽しくふたりで語り合いたい。

「グ・リ・コ」

 薄暗い路地で弾むように三歩進んだ。自分を元気つけるように。

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