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 それは刺すように寒い冬の日だった。


 雪の残る裏路地に、ボロ雑巾のようなくたびれた服を着て、ラビットはうずくまっていた。

 目に映る手足は痩せこけていて驚くほどに細い。

 吐く息は白く凍り、外気がとても寒いことは理解できたが、すっかり冷えてしまったラビットの体は、寒さも痛覚も通り越して、ただただ空腹の苦しさだけを訴えていた。

 あと数時間もすれば天に召されるのではないか――、ぼんやりと、幼い頭でそんなことを考えていた。


 そのとき、ふと目の前に金色に光る一つの懐中時計が落ちていることに気がついた。

 懐中時計なんて腹の足しにもならない。けれどもラビットは、這うようにして懐中時計に近づくと、そっとそれを拾い上げた。

 その瞬間、ラビットの頭の中に、まるで嵐のように様々な記憶が駆け巡った。それは記憶だった。彼女の前世――懐中時計であった頃の記憶だ。

 なぜだか持ち主の顔が思い出せなかったが、ラビットは溢れそうになる記憶に頭を抱えてうずくまった。

 そうしてしばらくしていると、今度は脳裏に金色の髪をした青年の姿があらわれた。


(……?)


 見たこともない青年だ。誰だろうかと考えた直後、ラビットは手に持っていた懐中時計から何かを訴える声のようなものを聞いた。

 それは正しく「声」ではなかった。いうなれば、強い念というところか。とにかく、ラビットの拾った懐中時計は、彼女の脳裏をよぎった金髪の男性のもとに戻りたがっていた。


 ラビットはふらふらと立ち上がった。

 このままここにいても、どうせ死ぬ命である。最後にこの懐中時計の願いを聞き届けてもいいだろう。

 その金髪の青年がまだこのあたりにいるのかどうかはわからないが、命尽きるまで探し回ってやろうと思った。動き回っても、ただ単に、死ぬのが少し早くなるだけのことだ。

 ラビットはふらふらしながら、しもやけで血だらけになっている足を動かした。

 裏路地から表に出れば、途端に鋭い視線が突き刺さる。

 表を歩く紳士淑女たちは、まるで汚いものを見るような視線をラビットに向けた。

 ラビットはきょろきょろと視線を彷徨わせて、それらしい特徴の男がいないかを探した。よたよたと歩いては、また視線を彷徨わせる。そうして繰り返しているうちに、やがて底をついていた体力が限界に来たのか、ぺたんとその場に座り込んでしまった。

 そのときだった。


「大丈夫かい?」


 頭上から声をかけられた瞬間、抱え持っていた懐中時計が震えたのを感じた。

 ラビットは顔を上げ、そこに探していた金髪の青年を見つけた。

 ラビットははあ、と熱い息を吐いて、震える手を青年に差し出した。彼はラビットの手の中にある懐中時計を見つけた途端、驚いたように目を丸くした。


「これは俺のだ。どうしてこれを君が……?」

「……この子が、あなたのところへ帰りたがっていた、から」


 ラビットはそれだけ言うと。その場にこてんと倒れこんだ。

 金髪の青年はラビットをそっと助け起こし、そして彼女の体の熱さに眉を寄せた。


「すごい熱だ。すぐに医者に見せたほうがいいな」


 青年はそういうとラビットを抱え上げて歩き出した。

 ラビットは驚愕したが、抵抗する気力はどこにも残っていなかった。

 青年に抱えられて揺られているうちに限界がきて、気絶するように眠りについた。

 次にラビットが目を覚ましたとき、そこは知らない場所だった。高い天井に高そうなシャンデリア。ラビットが寝かされているのは、ふわふわとまるで雲の上に寝そべったらこんな感じだろうかと想像させるような柔らかいベッドの上だ。もしかしてここは天国だろうか、自分は死んだのだろうかと首を傾げていると「やあ」と低いけれど柔らかい声がして、ラビットはびくっとした。


「ごめん、驚かせてしまったかな?」


 恐る恐る首を巡らせると、あの懐中時計の持ち主の青年がこちらへ近づいてくるところだった。


「目が覚めてよかった。医者の見立てでは風邪と、あと極度の栄養失調とのことだったから、何か食べられそうなら食べてほしいけれど、オートミール粥は嫌いかな?」


 青年の手には少し厚みのある白い皿があった。湯気が立っているところを見ると温かい料理だろう。オートミール粥が何なのかはラビットにはわからなかったが、目の前に食べ物があるとわかると途端に腹の虫が騒ぎ出した。

 青年はラビットの腹の虫の音を聞くとくすりと笑って「食べられそうだね」と言ってオートミール粥の皿を手渡してくる。

 ラビットは見たこともない食べ物に戸惑ったが、青年が添えられているスプーンを指して、それですくって食べるのだと教えてくれたので、言われた通りに口に運ぶと、ほんのりと甘いオートミール粥の味が口いっぱいに広がって、気がつけばむさぼるように食べていた。


「お腹がすいていたんだね。おかわりも用意できるから、ゆっくり食べなさい」


 ラビットは急に恥ずかしくなって、ほとんどからにしてしまった皿にスプーンをおくと、ちらりと青年を見上げる。


「あの……、ここは……?」

「ここ? ここは俺の家だよ」


 青年はウィルバード・ヴィラーゼル伯爵と名乗ったが、このころのラビットは「伯爵」が何なのかがわからなかった。ただ、家の雰囲気から、彼はきっとお金持ちのなのだろうと推測して、ちらりと自分のボロ雑巾のような服を見下ろす。

 子供ながらに、こんなに汚い服で、こんなに高級そうなベッドの上にいていいものだろうかと不安を覚えるが、ウィルバードは特に気にした様子もなく、「おかわりは食べれるかな?」と訊ねてくる。

 こんな小汚い子供に優しくするなんて、きっとこの人は天使か何かだと感動していると、使用人らしき女性にオートミール粥のおかわりを持ってくるようにと告げた彼は、懐から金色の懐中時計を取り出した。

 ラビットが「あ!」と声を上げると、彼はその時計をラビットに手渡しながら、


「ところで、君が目を覚ましたら聞こうと思っていたのだけど、どうしてこの時計が俺のだとわかったのだろう?」


 ラビットはどう答えるべきかと逡巡した。

 その時計が教えてくれたと言ったところで信じてはくれないだろう。けれども、ここで黙り込んでいたら、ラビットが彼からその時計を盗んだと思われないだろうか。

 幼いラビットでも、スラム街の路地裏で暮らしている子供たちがどのような目で見られているかをなんとなく理解している。ラビットは自分自身が何者なのかもわからず、自分がどうして路地裏にいたのか、その記憶も持っていないが、目の前のこの人と自分の住む世界が違うのだということはわかる。小汚いラビットは、口にしたその答え一つで、今すぐこの場で殺されてもおかしくない。

 ウィルバードは宝石のようなきれいな青い目でじっとラビットを見つめている。

 真実を告げても、誤魔化しても、結果は同じな気がした。どちらも信じてはもらえない。それならば、下手に誤魔化す必要はないだろうと思えた。


「あなたの時計が、あなたのそばへ帰りたいと言っていたから」

「なるほど。君は倒れる前にも同じようなことを言っていたね」


 ウィルバードは意外にもあっさりと頷いた。

 ラビットは拍子抜けして、


「嘘だと思わないの?」


 と思わず訊いてしまった。てっきり嘘つきだと、侮蔑のこもった目を向けられると思っていた。

 ウィルバードは薄く笑って、メイドが持ってきたオートミール粥のおかわりをラビットに差し出す。ラビットは受け取っていいものかどうか悩んだが、手元に残っていた一口分の粥を口に入れて、皿を交換してもらった。


「温かいうちに食べなさい」


 ウィルバードにそう言われたから素直に口に入れる。温かくてほんのり甘いオートミール粥にふにゃりと頬を緩ませると、彼はくすりと笑った。


「見ず知らずの人間が差し出した食べ物を疑いもせずに口に入れる――、そんな子供が、今にも意識を失いそうなほどの高熱の中、時計が教えてくれたなどという突飛な嘘をつくだろうか?」


 その粥に毒が入っているかもしれないと疑いもしない子供にそんな嘘はつけないだろうと言うウィルバードに、ラビットはぎくりと手を止めた。


「……毒?」

「大丈夫、入っていないよ。物の例えだ」


 ウィルバードは真っ白な手袋をはめた手を伸ばしてラビットの頭を撫でる。ラビットはほっとして、再び粥を口に運びはじめた。


「でも、気になることもある。君はこの時計がしゃべったと言ったが、今この時計は何を言っているのかな?」


 ラビットはきょとんとして、粥を食べるためにベッドの上においた彼の時計を見下ろした。

 ラビットは首をかしげて、それから小さく笑う。


「あなたは、オートミール粥が嫌い、だって」


 ウィルバードは目を見開いた。


「小さいころ、熱を出したらこればっかり食べさせられていたから、嫌になったって」

「………まいったな」


 ウィルバードは金色の髪をくしゃりとかき上げる。

 それから、降参だと言うように両手を軽く上げた。


「悪かった。本当は少し疑っていたんだ。だけどもう疑わないよ。そんなくだらないことを言われたら逆に疑えない。間違っていないしね」


 疑われていたのか。ラビットはスプーンを口にくわえたまましゅんとする。

 すると、ウィルバードは謝罪するようにまたラビットの髪を撫でた。


「そういえば君の名前を聞いていなかったね。名前を教えてくれる? どこに住んでいるのかな?」

「名前……」


 ラビットは考え込む。ラビットは誰かに名前を呼ばれたことがない。だから、自分がどんな名前なのかもわからない。さらに言えば、どこに住んでいるのかも、そもそも住んでいる場所があるのかさえもわからなかった。

 ラビットが困っていると、「名無しか」とウィルバードが小さくつぶやいた。


「その様子だと、家族はいないのかな?」


 ラビットが頷けば、困ったような顔で微笑まれる。


「そうか……」


 それからウィルバードは顎に手を当ててしばしば考えたあとで、ふと柔らかい笑みを浮かべて手のひらを差し出してきた。

 てっきり懐中時計を返せと言うことだろうと思って時計を差し出せば、ゆっくり首を横に振られる。


「時計じゃないよ。そうじゃなくて――、拾ってあげるよ。リトル・ラビット。時計ではなく、君をね」

「ラビット……?」


 きょとんとしていると、ウィルバードは「君の名前だよ」という。真っ白な髪に赤い目をしているから、ラビットと呼ぶことにするよ、と。

 ラビットは自分の姿を見たことがなかったから知らなかったが、どうやら白い髪に赤い目をしているらしい。

 拾ってくれるというウィルバードに、ラビットは戸惑ったが、目の前のきれいな人はとても優しそうだ。

 ラビットがおずおずと手を差し出すと、ふわりと握り返してくれる。

 こうして、ラビットは酔狂な十九歳の若き伯爵に拾われることとなったのだった。

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