33

 昔話をしよう、とイアンは言った。


 五年間もの間、ティーゼに会おうとしなかった理由が「赤面症」だと聞かされて、ティーゼは半ば茫然としながら頷く。


 五年も会わなかった理由が「赤面症」だと言われて唖然としたのか、それとも、もっと重要な理由が――例えばティーゼに何かしらの大きな落ち度があるなど――あると思っていたのにそうでなかったから安堵したのか、よくわからない。ただティーゼは、自分の思考回路がまるでネジが切れる寸前の時計のように止まりそうになっていることだけはわかった。


「君をはじめて見たのは五年……いや、もう六年近く前になる。まだ君は誕生日をむかえていなかったから、十四歳で、社交界デビューもまだだった冬のころだ。私が陛下の命令で、アリスト伯爵領を訪れたときのことだった」


 ティーゼは今まで知らなかったが、干ばつにより領地経営がままならなくなり大きな借金を作った伯爵領のことを、国王はひどく憂慮していたらしい。


 基本的に領地問題はその領地を治める人間にまかされることではあるが、アリスト伯爵家はこれでも数百年続く由緒正しい伯爵家で、借金で首が回らなくなったせいで、どこかの富豪が爵位を求めて伯爵家を買収、もしくは一人娘であるティーゼとの婚姻を迫る危険性があったらしく、国王派これをとても憂いていた。


 というのも昨今、爵位を持たない実業家が爵位欲しさに貴族と縁を持とうとする動きが活発化しているそうで、その結果、貴族の伝統も何も知らない新参の名ばかりの貴族たちに政治の世界にまで介入することを許してしまっていて、国王をはじめ国の重鎮たちの頭の痛い問題になっているという。


 国王はこれ以上成り上がりの貴族たちが増えれば国が混乱すると危惧して、側近であるイアンに内密にアリスト伯爵家の立て直しを命じたそうだ。


「……本当なら、数年かけて、伯爵が借金を返済するのと領地経営を立て直すのを手助けする予定だったんだ」


 だが、その予定は早々に狂ってしまったという。


「ティーゼは知らないかもしれないな。五年と半年前、君のところに縁談が持ち込まれていた。相手は王都で金貸しを営む男だ。……アリスト伯爵に金を貸した男でもある」


 イアンによると、その金貸しの男は、爵位欲しさに二回り以上年の離れたティーゼとの結婚を迫ったそうだ。のみならず、嫡男であるハーノルドの廃嫡を求めたという。つまり、ティーゼと結婚し自身がアリスト伯爵になることを、借金を理由に強要して来たらしい。


 父はその申し出を突っぱね続けていたそうだが、借金の利子を返すのがやっとな生活を続けるアリスト伯爵家が、いつまでも拒否し続けられる問題ではなかった。


「それを聞いて、さすがに悠長なことを言っていられなくなった。その男に渡すくらいなら、いっそこちらで適当な男を見繕って君と結婚させた方がいい。かなり強引な手にはなるけれど、その男にはあまりいい噂は聞かなかったし、このまま堂々と伯爵を名乗られてはたまったものではないからね。私は伯爵と相談の上、陛下にそう奏上しようと思っていた」


「思っていた、ということは、しなかったんですね」


「ああ。……できなかった。陛下に奏上する前に、君に会ってしまったから」


「どういうことですか?」


 ティーゼは首を傾げた。イアンとティーゼは一度も会ったことはない。それは間違いないのに、イアンの口ぶりでは彼はティーゼに会ったことがあるようだった。


 イアンは苦笑した。


「君の結婚相手を探すにも、君のことがわからなければ選定しにくいだろう? ……私は、一度君に会いに行っているんだ。君はその時、庭の畑を耕すことに夢中で、近くにいた私にはちっとも気がついていなかったけどね」


 ティーゼはかあっと赤くなった。


 ティーゼは結婚するまで、領地の邸の庭を耕しては、そこに野菜を植えて回っていた。顔も服も泥だらけにしながら。まさかその姿を見られていたなんて。


(家族以外はいないから大声で歌とか歌いながら作業してたし……どうしよう、恥ずかしい)


 それも自作の歌である。野菜の名前と食べたい料理の名前をひたすら上げていくだけの、歌と呼べるかどうかもわからないような歌だ。


 思わず顔を覆うと、イアンがくすりと笑った。


「可愛い女の子だと思ったよ。そして同時に、たくましい女の子だと思った。君は重そうな鍬を使いながら、そばで草をむしっていたハーノルドにこう言ったんだ。『借金なんて全部私わたしが返してあげる。どんなことをしたって、ハーノルドが爵位をつぐまでにきれいさっぱり何とかしてあげるから、安心していればいいのよ』って。きらきらした眩しい笑顔で。その根拠はどこから来るんだと思ったけれど、同時に君がとても眩しかったよ」


(ああああああっ)


 そんなことまで聞かれていたなんて。穴があったら入りたい。


「本当に……、あのときの感情をなんて言っていいのか、私もよくわからないよ。当時私の周りには、私の地位と権力と金にしか興味のない女性ばかり集まって来ていて……こう言っては何だけど、女性に辟易していたんだ。いつかは結婚しなければならないのはわかっていたけれど、社交界で会う女性たちの誰とも結婚したいとは思えなかった。むしろ嫌悪感さえ抱いていて……、女生とはこんなものだなと諦観すら芽生え始めていた。だから自分で作った借金でもないのに、弟のためにどんなことをしても返してやると笑う君が、……泥だらけになりながら畑を耕していた君が、びっくりするほど眩しくて、……八歳も年下の女の子なのに、私は君に、惹かれてしまったんだ」


 ティーゼはぴくりと肩を震わせて、そろそろと顔をあげた。


 イアンは真っ赤な顔をしたまま、愛おしそうにティーゼを見つめている。


「君に惹かれていると自覚すると、今度はほかの男と君の縁談をまとめる気にはなれなくなった。私はすぐに伯爵に交渉したんだ。借金は全部こちらで何とかするから、君と婚約させてほしいと。君が大人になるまで何年でも待つつもりでいたし、婚約者という立場でいいからと頼みこんだら、伯爵は最初は驚いていたけれど、私を君の婚約者にしてくれた」


 突然決まったティーゼの婚約にはこういった背景があったのかと驚いたけれど、ティーゼには一点気になることがあった。何年でも待つつもりだったとイアンは言ったけれど、ティーゼとイアンは、婚約してからすぐに結婚することになったのである。どういうことだろうかと首をひねると、ティーゼの疑問に気がついたのか、イアンが申し訳なさそうに眉を下げた。


「……何年でも待つつもりでいたのは嘘じゃない。でも……、君をはじめて見てから少しして、私は例の……この、赤面症を発症したんだ。最初は理由がわからなかった。私は伯爵の領地経営の相談に乗るために伯爵領に頻繁に足を運んでいて……、婚約の話は、君が社交界デビューをするまで伏せておこうと伯爵と相談して決めていたから、君には会ったことがなかったけれどね。伯爵の書斎の窓から、君が庭仕事をするのをいつも見ていたよ。そんなある時だった。いつものように君を見ていたら、急に呼吸が苦しくなって、顔が赤く染まったんだ。伯爵に熱があるのかもしれないからと言われたけれど違った。君が視界からいなくなると症状が収まり、君を見ると発症する。いったいなんなんだと思ったよ。わけがわからないまま王都に帰った私は、ノーゼン医師に相談した。ノーゼン医師も最初は意味がわからないと言っていたけれど、最終的に出した結論が『赤面症』。なんだそれ、と思ったよ」


 だが、ティーゼを見て顔が赤くなる症状は治まるどころか日を追うごとにひどくなる。ただでさえ八歳も年が離れているのに、真っ赤な顔をした男なと、気持ち悪がられても仕方がない。ティーゼをこんな男の妻にするのはさすがに申し訳なくて、考えた結果、婚約をなかったことにされる覚悟で伯爵に打ち明けた。


「すると伯爵は、気にしなくていいと言ってくれた。それどころか、すぐに結婚するようにと。私は驚いたけれど……、ここで躊躇って、やっぱり結婚させないと言われるのが怖かった。伯爵は、赤面症の症状が収まるまでティーゼに会いにくいと言うなら会わなくても大丈夫だと言ってくれて……、私は愚かにも、君の気持ちを考えずに、その提案に乗ることにしたんだ」


(お父様ああああああ!)


 元凶は父か! ティーゼは両手で顔を覆って天井を仰いだ。まさか身内に敵がいたとは。


(ってことは、わたし、旦那様にかなり失礼なことをしたのよね……?)


 イアンにティーゼと会わなくていいと言ったのは父だ。すぐに結婚するように進めたのも父。それなのに、借金を返してくれて領地経営の相談にまで乗ってくれていたイアンと離婚したいと騒ぎ立てたティーゼは、なんて無作法をしたのだろう。問い詰めるべきは、父だったのに!


「これが真相だけど……もちろん、君を五年間も放置して離婚まで決意させてしまった私に責任があることはわかっているよ。本当にすまなかった。謝ってこの五年が埋まることはないけれど……、まずは君の気持に気がつかなかったことを謝罪させてほしい」


 イアンが深く頭を下げる。


 ティーゼは慌てたが、イアンの言う通り、彼の謝罪で五年が埋まるわけではない。まだ頭は混乱しているし、まだもやもやも残っている。許しますとはどうしても言えず、深呼吸を一つしたのち、言った。


「……少しだけ、わたしに時間をください」


 すべてを聞いたから、すべてが水に流せるわけでもない。ティーゼにとってこの五年は、それなりに長く重たい時間だった。


 イアンは顔をあげて、自嘲するように薄く笑った。


「ああ。……君がどのような結論を出そうとも、受け入れる覚悟はできているよ」


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