20
心臓が壊れるかもしれない。
イアンはソファにぐったりと横になって天井を仰いだ。
サーヴァン男爵家の一室である。友人からこの邸を借りていられるのもあと三週間弱。妻の目的はよくわからないが、働きたいという妻の希望に便乗して、他人のふりをして接点を持とうとしたまではよかったが、ついでに赤面症の症状改善になればと欲を出したのが悪かった。まさかティーゼが、あんな行動を取るなんて。
(朝と夜のハグからはじまって、手をつないで庭を散歩して、食事を食べさせあって……いったい私をどうしたい!?)
ティーゼは純粋に「サーヴァン男爵」の赤面症を治そうとしてくれているのだろう。だが、そのたびに意識を保つのがやっとな自分は、いったいどうしたらいい。
さっきだってーー
「明日はお休みなんですよね? ライトバリー川に行って見ませんか? 舟遊びができるんですって! しかも、格安で!」
というティーゼの一言で舟遊びデートが決まってしまった。妻とのデートは確かに嬉しい。嬉しいが……、この状況で出かけて、本当に自分は無事に帰ってこられるのだろうか? 顔を隠すための帽子はもちろんかぶってくつもりだが、赤い顔を隠したところで失神すれば意味がない。デート中に男が気を失いでもすれば、ティーゼに迷惑をかけるし恥ずかしい思いをさせるだろう。
(嬉しいのに憂鬱だ……。せめて別荘近くの湖なら……いや、そんなところに誘ったら、私の正体がばれてしまうし、第一、日帰りは無理だ……。ならいっそ、ライトバリー川の舟遊び場を貸し切りに……いやいや、よくわからないがティーゼは『格安』なところに惹かれているんだ。貸し切りにしたらきっと怒る……)
打つ手なしとはこのことである。家に帰るまでの間意識を保つことに腐心するよりほかはない。
(だ、だが、抱き着かれても意識を保っていられるようになったし、少しは改善しているんじゃないか? 舟遊びくらいなんとかなるかもしれない)
そうだ、そうに違いないと自信に言い聞かせていると、コンコンと部屋の扉を叩く音が聞こえて顔を上げる。
起き上がって返事をすれば、サーヴァン男爵家の執事のポールが部屋に入ってきた。このポールは非常に優秀な執事だ。口うるさくなく、穏やかで、有能。正直言って友人宅から引き抜きたくて仕方がないが、そんなことをすれば友人とうちの執事にどんな嫌味を言われるかわかったものではない。あきらめよう。
ポールはイアンための食後のブランデーと、それから一通の手紙を持っていた。薄ピンク色の可愛らしい封筒だった。
ポールはブランデーのグラスをイアンの前に置いて、それから手紙を差し出した。
「ノーティック公爵家からこちらへ持ってこられました。旦那様宛だそうですよ」
有能な執事ポールは、一か月ほど入れ替わったイアンを「旦那様」として扱ってくれる。受け取れば、封筒の隅にティーゼの名前があって驚愕した。ティーゼが手紙をくれたのは、結婚してからはじめてのことだ。
大慌てで封を切って中を確認すると、少し丸みを帯びた可愛らしい字の羅列があらわれる。それだけでうっとりしそうだった。読み終わったら額に入れて飾ろう。
だが、ほくほく顔で文面に目を走らせたイアンは、次の瞬間大きく目を見開いて思わず立ち上がった。
「違うんだ!」
手紙相手に叫んだイアンに、ポールは驚いて目を丸くする。
「違う、違う、そうじゃなくて……!」
「旦那様、どうなさいましたか?」
ひとりあわあわしはじめたイアンに、ポールは遠慮がちに声をかけた。
イアンは手紙から顔を上げると、泣きそうな顔をポールに向ける。
ポールはイアンとティーゼの関係を知っている。サーヴァン男爵のふりをしてティーゼに会っている理由も知っている。イアンは逡巡したのち、黙ってポールに手紙を差し出した。
ポールは手紙に視線を這わせた後で、「おやおや、困りましたね」と苦笑した。
ティーゼの手紙には、どうして弟のハーノルドには会うくせに妻であるティーゼには会おうとしないのか、それから、会いたくないほど嫌っているくせにどうして結婚する気になったのかという不満がかなりストレートな表現で書かれていた。これが青くならずにいられるだろうか。
(嫌っていないのに!)
何より重要な点はここである。ティーゼはイアンに嫌われていると思っているらしい。由々しき事態だ。
おろおろしていると、ポールが手紙をテーブルの上に置いて、書斎机からレターセットとペンとインクを持ってきた。
「旦那様。僭越ですが、ノーティック公爵夫人……いえ、ここはあえて奥様と呼ばせていただきますね。奥様が誤解をするのも無理はないかと思われますよ」
「だが!」
「ええ、もちろん事情は存じ上げております。ですがひとまず、奥様の誤解を晴らさなくてはなりません。さあさあ、おろおろしていてもはじまりませんからね。こういうものは早いうちがいいのです。奥様へお返事を書きください」
「だ、だが……」
「書きにくいことは書かなくても問題ございません。ただ、奥様の考えは誤解であること、奥様の弟君に会っていた理由などを書けばよろしいでしょう。余計な嘘をついてはかえってよくありませんからね。書けることだけを正直に書けばよろしいのです。それで納得しなければ、きっとまた奥様からお返事が来るはずですからね」
イアンはポールからペンを受け取りながら頷いた。サーヴァン男爵のふりをしていることで、すでにティーゼに嘘をついてしまっているが、これ以上の嘘は重ねたくない。
イアンはペンにインクをつけて、何十分も悩みながら、何とか便せん一枚の手紙を書き終えたのだった。
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