煌(ひかり)の天空〜蒼の召喚少年と白きヴァルファンス

黒須友香

遥かなるアウローラ・ボレアリスの下で

消えた白夜

 Aurora Borealisアウローラ・ボレアリス。もしくはNorthern Lightsノーザン・ライツ


 宇宙から見た地球は、北極点及び南極点の周囲に「オーロラ・オーバル」と呼ばれる巨大な光の輪を出現させることがある。

 北側のそれは、アラスカやカナダ、北欧といった北緯65度から80度付近の地に神秘の光を注ぎ込む。この輪がいわゆる「オーロラ観測スポット」だ。


 今では「太陽風と地磁力・大気の相互作用による発光現象」とされているが、かつてはあまりの巨大さ・不気味なほどの美しさゆえに、災厄の前兆とも言われていた。


 また、カナダ極北に生きる先住民族イヌイットの人々の中には、このような古き伝承が残されている。


「この世のすべての生物および無生物には、精霊が宿っている」


「天空の光の向こうでは、地上での役目を終えた精霊たちが暮らしている。彼らはときどき、人の姿をとって再び地上へと現れる」



 ――これは、北の氷の大地で出逢った「人」と「獣」と「精霊」たちが織り成す、天と地を結ぶ「命」の物語。



  ◇ ◇ ◇



 カナダ北部、八月。


 ユーコン川といえば、世界中のカヌーイストにとっての聖地。登山家にとってのエベレストのような場所だ。


 短い夏を、美しくも力いっぱいに歌いあげるユーコンの流れ。


 川が雪解ゆきどけで怒涛どとうのごとく水量を増す春を越え、極北の初夏の名物ともいえる「蚊の大群」の発生も少し落ち着いて。

 ワスレナグサやヤナギランなど色とりどりの花が咲き、春に生まれた動物の子供たちがそろそろと巣穴から顔を出し始める、夏。


 加えて、ちょうど夏休み。

 日本の小学生・森見もりみ蒼仁あおとにとって、カナダの大自然を楽しむには絶好の季節だ。


「ひゃー! 気持ちよさそうー」


 視界いっぱい、どこまでも広がるエメラルドの流れ。

 その色はシーンごとに複雑な変化を見せ、どんな画材を用いても人の手では表現できないであろう天然のブルーグリーンの色彩を、小さな蒼仁の目に届けてくれる。


「二人とも泳ぎうまいなー。あ、二頭か」


 広大な流れを前にこぼれた蒼仁の感想は、悠々と泳ぎ回っている、二頭の犬たちに向けられたものだった。


 犬と呼ぶには、外見が狼に近いかもしれない。

 鍛えられた肢体に灰色の体毛、鋭く吊り上がった目。

 二頭とも四歳を迎えたばかりの大型の成犬だが、無邪気に取っ組み合って遊んだり、蒼仁に尾を振ってじゃれつくさまは、子犬と大差ないように見える。


 西欧で「ウルフドッグ」として交配されてきた、正規の犬種とも違う。おそらくこの地で受け継がれてきた血統のどこかで狼の血が混ざったことのある、自然な形での交配種だろう。


「ゲイル! ブレイズ! ご飯だよー」


 覚えたばかりの英語で犬たちを呼ぶ。暑さから逃れるために気ままに泳いでいた二頭は、蒼仁の声ですぐに岸に上がってきた。


 川岸に簡易設営したキャンプ場には、蒼仁の父が釣ったマスやパイク、現地ガイドが持参したベーコンに野菜のスープなど、ひと通りのメニューが美味しそうな湯気を放っている。犬たちの尾が嬉しそうに上下へ揺れる。


 ゲイルとブレイズは、今回の川下りに同行したカナダ人ガイドの犬だ。それぞれの名前と連絡先が刻印された首輪をつけている。

 初めてのカナダ旅行に戸惑っていた蒼仁の心を和らげるのに、二頭は十分すぎる働きをしてくれた。

 共に並んで無邪気にマスをほおばる様子は、まるで何年も前から同じように食事を共にしてきた、本当の家族のようだ。



  ◇ ◇ ◇



 蒼仁は、父親とカナダ人ガイドと共に、一週間の予定でカヌーでの「ユーコン川下り」に来ている。


 車やモーターボートでも行ける街まで、あえて手漕てこぎのカヌーで向かう。

 途中、川岸の好きな場所にテントを張って何泊してもいいし、食べ物は持ち込んでもブルーベリーなどを摘んでも魚を釣ってもいい。都合が悪くなれば途中リタイアもできる。


 多くの交通手段がそろった便利な時代に、あえて手間と時間のかかる、ゆったりとしたき方を選択できる贅沢ぜいたく


 大人たちが噛みしめるこの贅沢な時間も、蒼仁にとっては、日本の小学校の校外学習とそう大きな違いはないのかもしれない。どちらも初めて見るものばかりの、未知なる体験の連続だからだ。


 食事を終え、テントをたたんでカヌーに積む。

 三人と二頭を乗せて、二艇にていのカナディアン・カヌーが水面をすべるように動き出す。


 自分たちのほかに人の姿はない。

 見渡す限りの空と水、川岸と針葉樹林スプルースと稜線連ねる山が、世界のすべて。

 こんなにも広大なのに、余計なものがない。自然の音しか聞こえない。

 狭い世界で多すぎる物と音に囲まれた、日本での煩雑はんざつな生活が嘘みたいだ。


 父親と共にカヌーをいでいた蒼仁は、ふとパドルの動きを止めた。

 川岸に、何かが動いたような気がする。


 蒼仁の視線に気づいて、父親も手を止めた。

 前を行くガイドも異変に気づき、静かにカヌーを二人の方に寄せる。


「狼……? ホッキョクオオカミか?」


 父親が低くつぶやいた。

 三十メートルほど離れた川岸に群生する、蒼仁の腰ほどの高さのランの群生。可憐かれんな白い花の間を縫って現れたのは、同じく白い、雪のような色の毛並み。


 ホッキョクオオカミのようにも見えたが、流れるような動きで全身を現したそれは、嬉しそうに尾をぴちぴちと振りながら、ウォン! と一声高く吠えた。


「ヴィティ!」


 ガイドのブレンが興奮の声を上げた。続けて早口で何かを話し、蒼仁の父親がかいつまんで蒼仁に説明する。

 フィンランド語の「粉雪ヴィティ」という名で呼ばれた美しいけものは、昨年いなくなったブレンの飼い犬だった。ゲイルとブレイズ、二頭と同時に生まれた兄弟犬だそうだ。


 ゲイルとブレイズは、「彼女」のことを覚えているのだろうか。

 カヌーの上で真っすぐに「彼女」を見つめている、二頭の様子からはつかめない。


 ヴィティの足元に、さらにもうひとつ、ふわっと白い毛玉が降りた。

 蒼仁が思わず「わぁ」と声を上げる。


 ヴィティの足に寄り添いながら、せわしなく辺りのにおいをかぎ続ける小さな個体。おそらく、ヴィティの子供だろう。

 ふわふわとして、綿菓子みたいだ。蒼仁はもっと近くで見たくてたまらなかった。


 カヌーで近づこうとするのを、父親が静かに制する。

 ヴィティ自身はもとの飼い主や兄弟犬に対して親愛のポーズを示しているが、現在の彼女が置かれた状況も、子供の父親もわからない。父親が狼だとすれば、不用意に近づけば野生の狼たちの繁殖はんしょくのテリトリーに足を踏み入れることになってしまう。


「ただでさえ、子育て中の母親は色々と大変なんだ。野生の中でうまく暮らしているなら、今はそっとしておく方がいいだろうね」


 父親の言葉に蒼仁は納得した。重々しくうなずくブレンに続いて、再びカヌーで漕ぎ出そうとした、そのとき――


 彼らの世界に、が起きた。



  ◇ ◇ ◇


 

 人よりも先に気づいたのは獣たちだった。


 ヴィティが子供をくわえる。ゲイルとブレイズがうなる。

 獣たちがにらんでいるのは、空だ。


 針葉樹林タイガがざわめく。姿なき獣たちの、まだ聞いたことのないような鳴き声が響き渡る。

 どこからかたなびいてくる、煙のように細く長い音の振動。狼の遠吠えのようだ。


 マガンの群れがいっせいに飛び立っていく。

 数えきれないほどのおびただしい黒い影が、空を埋めて飛び去っていくのを見上げながら、三人は驚嘆の声を漏らした。


「なんだ? あれは……」


 青かった空に、巨大なカーテンがかかっていた。

 何重ものひだを持ち、ゆらゆらと揺れ動きながら空を覆いつくしていく。


「あれ、オーロラ?」


「いや……」


 父親が黙り込んでしまったのも無理はない。オーロラと言えば「冬の夜空」が定番だが、夏の昼間にもまったく見えないわけではない。


 だが、今彼らの頭上を染め上げている光は、かつて誰も見たことがない色の波。

 濃紺のうこんをはらんだ黒、だった。


 それは、地球では決して見ることがないはずの色。


 揺れ踊っていた黒のカーテンは、ある一点を中心にパアッと放射状に広がった。通常のオーロラでいう、「ブレイクアップ」という現象だ。


 まるで爆発したかのような光の洪水は「コロナオーロラ」と呼ばれる。無数の黒の矢が天空中に向けて放たれる。


 空が裂け、地上に宇宙の粒子が降り注ぐような感覚。

 三人の目には、世界の終わりがたった今形となって具現化したように見えた。


 天変地異は、そこで終わらなかった。

 まるで天空のブレイクアップに呼応したかのように、カヌーが震え始めた。


 地震のような小刻みな振動が、徐々に激しさを増していく。ブレンが叫びながらパドルを振り、父親が蒼仁に何か言おうとした、そのとき。


 信じがたいほどの災いが視界を覆いつくした。

 あんなにも雄大で穏やかだった、エメラルドの川が。

 白い泡を立て、高波をともなってしている!


 あっという間に何百メートル、いや何キロメートルもの流れを荒波が駆け抜ける。

 逃げる間も与えられず、波は大口を開けた怪物となって、その場の生き物すべてを一瞬のうちに飲み込んだ。


 闇に閉じ込められた蒼仁の体が冷たい流れにもみくちゃにされ、に何度も叩きつけられる。

 やっと薄く開けた目で、の正体が見えた。いたるところに氷塊ひょうかいが浮いている!


 ライフジャケットのおかげか、やっと酸素を取り込める程度に水面から顔を出すことができた。

 ついさっきまでいた場所からどれだけ押し流されたのか、ほかのみんながどうなったのか、何もわからない。


「お父さん……! どこ……!」


 父親の代わりに、小さな白い固まりが蒼仁にぶつかった。

 無我夢中で拾い上げると、鳴きながら小さな舌を出して、蒼仁と目が合った。


 夜空の星を集めたような、深い濃紺の瞳。

 ふわふわだった白い毛は波に荒らされ、ただ体にまとわりつくだけの糸くずのようになっていた。


 まだかすかに熱を感じる固まりを、ぎゅうっと胸に抱きしめる。

 また大きな波が来て、一人と一匹は全身を水中に深く押し込まれた。

 氷塊が押し寄せ、川面かわもを次々に白く固く覆い尽くしていく。


 深い闇に沈みながら。

 薄れてゆく視界の隅に、蒼仁は最後に白い光を見たような気がした――




 その日、極北の太陽は「闇のオーロラ」に覆われた。


 白夜びゃくやは一瞬のうちに極夜きょくやへと変わり、夏は冬になった。


 豊かな大自然と氷河をようし、ひいては地球全体を「熱」から守ってきた極北の、潰滅かいめつへのカウントダウンが始まる。

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