カナリア

 ヴィオリン弾きの青年が通っている大学には鳴かないカナリアがいる。

 まるで出来たての麦のような金髪は、カナリアが動くたびに風になびく穂のようにゆらりゆらりと揺れて、見る者の心を和ませる。空色の眸はいつもどこかあてのない旅に出るように彷徨って一つだけを捕えるということがない。その身体は本当に小さくて、九つのころから成長してないと噂されている。その身を白いフリルのドレスで包み、大学のキャンバスを飛ぶように踊っている姿は大学に通う者ならあちこちで見かける名物と化している。カナリアはこの大学で生活をしているらしい、とみんなが口にしていた。それが嘘でないことを青年は知っていた。カナリアの保護者である教授は、青年の先生で、ちょくちょく部屋にいくのだが、そこのふかふかのソファがまるで巣のようにカナリアは小さな身を驚くぐらい縮めて眠っていることが多々あった。


 青年が周りから聞いたことによると、カナリアは九つの見た目らしいが、実際は大学生くらいの年齢らしい。しかし、両親が飛行機事故で死に、そのショックで成長することをやめてしまった。また、カナリアは素晴らしい声をもっていて、その代償として大きくなることを捨ててしまった。

 それはどれも正解で、少しずつ外れていた。

 カナリアは確かにすばらしい声をもっていて、歌声は誰も彼もを泣かせたが、それは失われて久しい。

 成長しないのは、両親が死んだ事故以来らしいが、それがカナリアの精神になにを与えて成長させなくなったのかは不明だ。

 青年は、それらのことを保護者である教授から聞いた。

 カナリアは、大学に住んでいるが、ここが好きなのではなくて、外に出れなくなってしまったのだ。それは誰かが決めたことではなく、カナリアがそうしてしまったのだという。だから教授はカナリアが生きやすいように洋服をもっていき、学食のおばさんは朝、昼、晩の食事を用意している。誰もがカナリアのことが好きで慈しんでいる。その小さな弱さに魅了されない者はいないのだろう。それは青年も同じで、彼はヴァイオリンの練習の傍ら、教授に懇願されてカナリアの友人になった。カナリアもまた青年のことを友人として認めてくれた。

 青年が奏でるヴィオリンの音にあわせてカナリアはふらふらと寄ってきてにこにこと邪魔することもなく笑っている。

「カナリア」

 そう呼ぶとカナリアはふわふわのスカートを揺らして笑い、青年をキャンバスへと連れ出す。

 勉強のあとの散歩が青年とカナリアのささやかな友情の時間だった。カナリアはなにも話さないが、その目はいつも忙しく動いていろんなものを捕らえ、手は多くのものを求めていた。青年はヴィオリンを弾くときのように耳を澄ませ、カナリアの声にならない声を聞こうと努力した。それはヴィオリンの弦に指を置き、響きを確かめるようなものだった。

 青年は二年になるとオーケストラに所属し、大勢の人間と競い合い、絡み合い、ときには賛美し、反発しあうなかに身を置いた。青年は人と重なり合うことが苦手だった。まして人と合わせて、一つの曲を奏でるというのは反発のしあいか、自分が自分でなくなると錯覚するしかないからだ。それは青年の精神を疲弊させた。そういうとき、いつも青年は大学のキャンバスの端でそっとヴィオリンを、はじめて人を好きになったときのように遠慮がちに優しく、愛撫する。

 決して裕福ではない家が与えてくれた、青年の財産は、この大学ではかなり安いものであったが、それでもカナリアは音がするとどこからともなくふらふらとやってくる。カナリアの白いレースが揺れるたび、青年は自分の音楽もたいしたものだと心が落ち着くのだ。

 しかし、周りの評価はそこまで甘くはなかった。

 ヴィオリンを専攻する五名を集め、同じ曲を弾いて、それぞれの批評をしあうとき、青年の音楽に誰も彼もなんともいえない顔をしていた。そして決定的な評価をしたのは教授だった。

「こんな素朴な音ははじめて聞いた」

 それが褒め言葉でないことは、すぐにわかった。

 音楽とは心を燃やし、自分を表現するものだ。それが素朴ということは自分の心は冷たく、楽器に己の持つ情熱を宿して人の心へと届かせることがない、ということだ。そのとき青年は愕然とした。

 ここまで強烈な批評はきっと自分くらいのものだった。

 だから、その日、もうヴィオリンをやめようかと、放課後に教授の元に訪れた。

「けど、カナリアは君の音楽が好きなんですよね」

「先生」

「カナリアは、歌わない。けれどね、それはカナリアが願っていたことじゃない。あの子は、両親が死んだとき、成長を止めてしまった。大きくなることは死ぬことだと知ってしまったから。なによりも声が変わってしまうことをカナリアは誰よりも恐れた」

「カナリアが、ですか」

「そう。そして、カナリアは求愛のときにしか歌わない。それはそれはロマンティックな生き物なんですよ」

「そうなんですか」

「カナリアの歌声を聞ける人はいるのかな」

 静かに微笑む教授を見るとヴィオリンをやめると言いだせず、かわりに、いつか聞きたいですと言い返し、彼は部屋をあとにした。

 廊下を歩いていると、カナリアがいた。またスカートを広げて踊っていた。そのとき青年はカナリアのスカートの下に隠されている秘密を見た。

 青年は息を飲み、思わず走ってカナリアの元へと行くと、カナリアに手を伸ばした。カナリアはいつものようににこにこと微笑んだが、青年の手から逃れようとした。

「カナリア」

 カナリアの細い腕をとり、青年は自分の元へと引き寄せた。

「歌ってくれ」

 カナリアの青い目がじっと青年を見つめ、桃色の唇がそっと開いては閉じる呼吸の音を聞きながらたまらない気持ちになった。

 カナリアのために奏でていたかった。だが、カナリアは違うのかもしれない。

 屈みこんで唇をそっと奪い取り、胸に触れると平べったく、そしてスカートのなかへといれるとそれはついていた。

「カナリア」

 カナリアは大きく目を開き、桃色の唇が悲しげに歪んだ。

 そしてカナリアは青年の手から逃げ去ってしまった。まるで飛び立つ鳥のように。


 青年はカナリアを檻に入れることもできなければ、その歌声を奪うことも出来はしなかった。

 ただカナリアの甘い香りだけが青年の手のなかに残った。


 オーケストラを辞めて、青年はいよいよ大学に行くことが億劫になってしまった。近くのカフェで日長一日、コーヒーとレコードから流れる歌声だけを聞いて過ごすようになった。

「これ、あなたの大学のきれいな男の子が歌った曲ですって」

 カフェのマダムはにやにやと笑ってレコードを取り出した。

 それがなんのレコードなのかと聞くと、大学のバザーでもらったものだと口にした。音楽にうるさい学生が多いから、少しでも音に敏感でないとやっていけない、けどそんな才能は私にはないから、大学から音を分けてもらっているのよ。青年はなにげなく、マダムが得意げにレコードに銀の針にセットする様子を見つめていた。そしてそこから流れ出したのは甲高い鳥の歌声だった。カナリアだ。カナリアが歌っている。誰も彼もを泣かせたと言われたカナリアの歌声は、細く、細く、高く、本当に美しいものだった。それは青年の心を震わせ、同時に衝動を生んだ。彼はヴィオリンだけを片手に大学へと走り、いつものようにキャンバスにいるカナリアを見つけ出した。金髪をなびかせるカナリアの空色の眸に青年はヴィオリンを奏でた。それにカナリアは微笑み、口を開いて発してくれた。レコードで聞いたものとは違う。はっきりと、低く、締め付ける強さのある歌声を。

 それがカナリアの、青年に対する答えだ。

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