第6話
数日後に届いたクレジットカードの請求額を見て、あかねは靴を履いたまま狭い玄関に座り込んだ。七月の終わり頃に、夏のセールでバッグやら服やらを買ったことをすっかり忘れていた。また再来週結婚式に出なくてはならないのに、一体どうしたらよいのだろう。貯金など当然ない。実家の親に頼めば渋々くれるかも知れないが、今まで何度も借りているし、そんなに苦しいなら実家に戻れと言われかねない。会社に隠れて一時的にバイトでもしようか……。のろのろと立ち上がると膝から封書が二通こぼれ落ちた。明細書と一緒にポストに入っていたものだ。一通はよく行くショップの新作の案内だった。綺麗なモデルがファーのついた白いコートを纏っていた。値段を見ると七万八千円とあった。片手で握りつぶした。嫌な予感がしたが、もう一通は結婚式の招待状だった。差出人は大学の同級生で、やはり卒業以来何年も会っていない女だった。
久しぶりに定時で上がれたので、自炊でもしようとスーパーであれこれ食材を買ってきたが鯖の切り身だけ冷蔵庫へしまい、財布とスマホを持ってマンションを出た。左右に広がる飲食店を眺めながら歩いていると、スマホが鳴った。菜々からだった。
「もしもし」
「別に用はないけどかけてみた。何してんの」
後ろがひどくざわついている。駅にいるようだ。
「ご飯食べに行くとこ。菜々は?」
「彼氏待ってるの。仕事終わったみたいだから。あかね、なんか声暗くない?」
「わかる?お金なさすぎて絶望して死んでた」
「ああ、今月は結婚式二回できついって言ってたもんね」
「ダイエット兼ねてしばらく夕飯抜こうかな」
「それ以上痩せてどうすんの」
菜々が笑い声をたてた後、
「そういえばさ、うちの会社の子が銀座の婚活バーに行ったっていうのよ」
と思い出したように言った。
「婚活バー?なにそれ」
「座ってると次々男性が現れて、おしゃべりするってとこ。お店型婚活パーティーって感じかな」
「へえ、どんな感じだったって?」
「普通に面白かったらしいよ。一人と連絡先交換したって言ってた。でも既婚者もまぎれてたっていうから、実際婚活ってより単なる出会いの場って感じみたい。でね、女性は飲み放題食べ放題なんだって。実際女子会目的で使ってる女の子が多かったって。タダだし今度行ってみようよ」
「そんなお店があるのねぇ」
「あ、彼氏がきた。ごめん、また連絡する」
「うん、またね」
電話を切ると財布の中身を覗いてみた。目の前に、開店したばかりの美味しいと話題のパスタ屋があったが家に引き返した。
翌朝、残業したくなかったので八時前に出社した。部の人間は誰もいなかったが、奥の席にちらほら人が見えた。席に座りコンビニで買ってきたアイスコーヒーを飲んだ。まだ空調がきいていなくひどく暑い。あかねはを薄手のジャケットを脱いだ。下はてろてろとした袖無しのカットソーだ。それに合わせた濃紺のタイトスカートは、さりげなくラメが光るところが気に入っている。
集中して仕事をしていたらあっという間に三十分過ぎていた。氷が溶けきったアイスコーヒーを飲み干した。「おはようございます」声がして振り向くと珠理奈がいた。
「おはよう。早いのね」
こんな時間に彼女を見るのは入社初日以来ではないだろうか。
「えへ、なんか赤ちゃんが元気よく動くから目が覚めちゃったんですぅ」
珠理奈はおなかに手を当て首をかしげた。
「そう」
「初マタだから色々不安なんです」
彼女は長い髪を気怠げにかきあげた。時にこの女は顔に似合わない表情をする。話に落ちがないのとすぐ飛ぶのにはもう慣れていた。
「大変ね」
あかねは再びパソコンの画面に目をやった。この女の前では話を広げないように努めているが、彼女は弾けるような笑顔を見せた。
「でもマタニティライフ、エンジョイしているんです」
元からぽっちゃりとついている頬の肉がますます盛り上がった。
あかねは唇の端をわずかに持ち上げた。
「あ、今日はスカートなんですね。珍しい」
「たまにはね」
「石川さん、がらっとイメチェンしましたよね。彼氏の影響とかですか」
珠理奈は上目遣いで探るように見てくる。
「さあね、秘密」
生成りのレースのフレアワンピースに淡い黄色のカーディガン、踵にリボンのついたパンプス。今日の珠理奈の服装だ。二ヶ月前まであかねはこれと同じような格好をしていた。あかねの目はとても大きい。ややつり上がっていて白目の部分が多いせいかきつい印象を与えがちで、これは少女の頃からの悩みだった。就職前にファッションやメイクの雑誌を研究し、パステル系の女性らしい服に身を包みアイメイクを控えめにするといくらか親しみやすい雰囲気が出た。
昨年末、事務職の中途採用者リストの中に“藤堂珠理奈”という名前を見た。どこの美人のお嬢様かと思いきや、年明けに現れたのは中の下といった容姿の、地味で平凡な女だった。だが、仕事に慣れてくるとともに変化が出てきた。あかねにそっくりの服装で出社するようになったのだ。当然周りはざわついたが、彼女は素知らぬ顔であかねの着ている服を褒め、ブランド名を聞き出し、翌日そこのワンピースを着てくるなんてこともあった。巻いたロングヘアまで真似されるようになった。会議の後など、二人で社内を歩いていると恥ずかしくて仕方なかった。自分が珠理奈の真似をしているなどと思われたりしたら屈辱である。髪をばっさり顎下まで切り、クールな感じの服に変えた。周りの評価が「可愛い」から「セクシー」になった。それまでの服は、フリマアプリでごっそり売った。
「この会社って、おじさんしかいないですよね」珠理奈が勤務中にそう不満げにつぶやいたことがある。ここはそれなりに有名な住宅メーカーの子会社であるが、採用活動はあまりしていなく若い男性社員は入ってこない。社内の男性は四十歳以上が多く、ほとんど既婚者だ。彼女はどうやら婚活目的で入社してきたらしかった。
千賀と珠理奈が付き合っている、という噂を聞いたとき、あかねは特に驚かなかった。同じビルに入っている親会社に勤める千賀は、業務上のやりとりで度々あかねの部署に来る。珠理奈はひそかに目をつけたようで、千賀ら親会社の男性たちとあかねの部署の女子社員らで飲み会をした際、千賀の隣を離れずビールを注いだり、甲斐甲斐しく料理を取ってやったり、熱心に話しかけあからさまに好意を示した。その必死な姿を見て聡子と麻紀は冷笑していた。それから数ヶ月経った頃、朝礼の後に珠理奈が恥ずかしそうに、それでいて勝ち誇ったような笑顔で婚約と妊娠を発表したときはさすがに驚いた。女子トイレではしばらくその話題で持ちきりだった。
午前中の部内会議が長引き、聡子と麻紀と三人で遅い昼食をとった。いつもは行列ができる中華の店にすんなり入ることができた。
「ねえ、初マタってなに?」
あかねは担々麺を箸に取りながら麻紀に聞いた。彼女は酸辣湯を飲んでむせた。
「急になんですか。……初めての妊娠て意味ですよ」
「ああ、マタニティのマタか」
あかねが頷くと聡子が眉をしかめた。
「ネットでよく見るけど、実際そんな言葉使ってるやついるの?引くわ」
「それが身近にいるのよね」
「まさか……藤堂さんですか?」麻紀は大げさに目を見開く。
「正解。麻紀ちゃん、よくわかったね。はい、あげる」
あかねは小籠包の皿を差し出した。
「ありがとうございます。だってそんな痛い人、他にいないじゃないですか」
小籠包に醤油をつけながら麻紀は苦笑した。小動物のように丸くつぶらな目をきらめかせながら、発する言葉はいつも毒気を含んでいる。
「あーあ、なんでそんな女の結婚式に出なきゃなんないわけ」
聡子が丼の上に箸を置いて、紙ナプキンで乱暴に口をぬぐった。
「本当にめんどくさいですよね。しかも五連休のど真ん中ですよ、どんだけ非常識かって。私、友達とグアム行く予定だったのにな」
聡子につられて麻紀の目もみるみるつりあがっていく。
「式場探しまくって、たまたまキャンセル出たのがその日だったら
しいよ」
あかねは珠理奈が嬉々として報告してきたことを思い出した。
「あかね、どんな服で行くの」
「前から狙ってるワンピがあるんだけど、高くってねぇ」
「手持ちの服は?」
「それが先週着たのはやっぱりいまいちでさ。もう一枚はミサの式ですでに登場してるし。あと五年前に買ったのがあるけど、当時の流行りって感じでもう着られないし。最近レンタル流行ってるけど、それは抵抗あるな」
ミサというのはあかねと聡子の同期で現在産休中である。今回も会社関係の人がたくさん出席するので同じ服は着たくなかった。
「服買ったら靴やらバッグやらもそれに合うもの欲しくなるし、美容院にも行かなきゃだし。ご祝儀代入れて、今回十万近く飛びますよ。でもショボい格好はしたくないしなー。この前買ったワンピ、1回洗濯しただけでボロボロになって。やっぱ、ファストファッションはいまいちですね。お二人は一人暮らしだし、もっと大変ですよね」
麻紀は食後の杏仁豆腐をつるりと流し込み頬杖をついた。
「母が、うちにある着物着ればって言うんだけどね、振り袖もどうかと思って」
あかねはジャスミン茶を注いだ。
「え、振り袖あるなら着なよ。今のうちに」聡子の顔がぱっと明るくなった。
「そうですよ、せっかくだし着てきてくださいよ」
麻紀もはしゃいだ声で身を乗り出す。
「成人式で着たものだしねぇ」
「うちのいとこ、三十六歳だけど着てたよ。若く見えるから違和感なかったもん。あかねなら全く問題なし」
「そうね……考えてみる」
振り袖にしたらいくらお金が浮くのかあかねは頭の中で計算を始めた。
オフィスに戻る途中、駅の方面へ向かう千賀と会った。
「あれ、どうしたのこんな時間に」
千賀は三人の顔を順番に見た。
「お昼遅かったの。千ちゃんは外出?」
聡子が聞くと、
「うん、東陽町まで」
千賀が答えると麻紀が眉をしかめた。
「うわ、遠い。この暑い中大変ですね」
「ほんとだよ。スーツがべとべと」
額から流れる汗を鬱陶しそうにタオルでぬぐいながらも、彼はあかねを見て微笑んだ。
「気をつけて」
あかねがそっけなく言うと、彼はじっと見つめてきた。
「……うん、ありがと。行ってきます」
彼が去ると聡子がつぶやいた。
「千賀ってさ、絶対まだあかねのこと好きだよね」
「私も思ったぁ」
麻紀が賑やかに手を叩いた。
「まさか」
あかねは鼻で嗤った。
(7へ続く)
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