第4話

 今日も朝から忙しかった。珠理奈はいつも通りネットに夢中になっていた。あかねは斜め向かいに座っている聡子を見た。彼女は目で合図を送るとパソコン越しに片手で珠理奈に書類を差し出した。

「ねえ、手が空いてるならこれ処理してくれない?」

 声が尖っているのは夕刻の疲れだけではないだろう。

「はぁーい」

 彼女は画面から目を離さず高い声で答えると、面倒くさそうに書類を受け取った。わざとなのか元々なのかよくわからないが、いわゆるアニメ声である。質の悪い水飴のように甘くて粘ついた声。前職も事務職というのに珠理奈はパソコンがあまり得意ではない。操作を誤る度に「やだ」「もう」などとつぶやく。案の定、今も苦戦している。珠理奈が「だめだぞ」と言って画面に軽くゲンコツをした。

 あかねは思わずキーボードを打つ手を止め横を向いた。

「えへ、変なとこ押しちゃってえ、今の消えちゃいましたぁ」

 彼女はぺろりと舌を出した。唇はグロスでてかてかと光っている。聡子を見ると額に手をやり口をぽかんと開けていた。その隣の麻紀も呆れていた。珠理奈はそんな視線を一向に気にせず、手首に巻いているピンク色のシュシュをはずすと芝居がかった仕草で髪をまとめ、再び手を動かし始めた。しばらくは集中していたようだが、17時5分前になると彼女はバッグの中身を整理しだした。財布とポーチしか入らないような小さなハンドバッグだ。そしてパソコンの電源を切り時計の針を確認すると、「お疲れ様でぇす」と明るい声で席を立った。「お疲れー」「お疲れ様です」部内の人間たちがそれぞれ小さくつぶやいた。あかねはタイムカードを押す珠理奈に目をやる。膨らんできた腹を隠すためか、ゆったりとしたシフォンのワンピースを着ていた。その姿が消えたと同時に今年入社したばかりの夏美が菓子を配りだした。ほっと息をつく時間だ。聡子は大きく伸びをした。「佐藤くん、コレ行く?」部長が煙草を吸う仕草をして課長を誘った。「ええ、行きましょう」彼は菓子を口に入れるといそいそと立ち上がった。「煙草部屋にいるから何かあったら呼んでね」あかねは彼らの地肌が透けた頭を交互に見ながら頷いた。

「今日も笑えましたね」

 一つ年下の麻紀は口元を歪めた。

「今どき舌ペロリって出す女います?」

「昭和か」

 聡子は呆れた顔で背伸びをすると、立ち上がって無料のドリンクマシンからコーヒーを注いだ。

 妊婦の珠理奈は毎日定時で帰ることが許されている。許されているというか、妊娠報告と同時に定時上がりを彼女が主張したため、気の弱い部長は渋々承諾したのだ。皆それなりに身重の珠理奈に気を遣っていた。調子に乗りだした彼女は元々仕事熱心とは言い難かったが目に余るほど手を抜きだし、新卒の夏美に自分の仕事を押しつけそそくさと帰るようになった。それを麻紀が咎めると「みんな気を遣ってくれないんです」と課長の前で泣いたという。「他の女性は妊娠しててもほとんど残業しています。彼女だけ特別扱いっていうのはどうなんでしょう」部内で一番気の強い聡子は見かねて部長に告げた。「今は色々とあるから……。女性同士、もっと配慮してあげて」小心者の彼は大きい体を縮めて聡子に頭を下げた。

「今日もブライダルエステのサイト観てたし」

「無駄だっつーの」

「ね。その前にライザップ行けって感じ」

 CMの真似をしながら聡子と麻紀はげらげら笑っている。

「もう少しよ」

 あかねは力なく笑っている夏美の肩を叩いた。彼女はほとんど化粧気のない顔で頷いた。あと一ヶ月弱で珠理奈は寿退社するのだ。


 ネイルサロンに行った三日後、左手の薬指のラインストーンが二粒取れかかっているのに気づいた。聡子たち同期とのランチを断り、あかねは財布を持って外に出た。会社の斜め向かいにドラッグストアがある。ネイル用品の棚を隅々まで探すと専用の接着剤があった。それを手に取りレジへ向かった。会計を済ませついでに隣のコンビニに寄り、おにぎりと春雨のカップスープとサラダを手にとった。ちょっと考えてサラダは棚に戻した。

早々と食事を済ませトイレへ行った。歯磨きをし、仕切られた化粧直しスペースでラインストーンに接着剤をつけた。それを爪にそっと置き慎重に押さえるとしっかりくっついたようだった。

 仕事が終わってからあかねはヨガ仲間の祥子と待ち合わせをした。挨拶もそこそこに駅前のカラオケボックスへ直行した。烏龍茶と食べ物を適当に頼み、曲を入れリピートの設定にする。画面に古くさくて安っぽい男女が登場した。前奏が終わるとあかねと祥子は歌い出した。普段歌わない曲なので音程がよくわからない。間奏が入ると祥子はすっかり冷めたたこ焼きを口に放り込んだ。

「今日も残業だったの?」

「うん。祥子ちゃんは?」

「定時で上がれる予定だったのに、お客がなかなか帰らなくて。そのくせ買わないんだもの」

 祥子は新宿の駅ビルで婦人服の販売をしていた。まだまだ汗ばむ季節だが、店の服であろうボルドーのいかにも秋めいた長袖のワンピースを着ていた。間奏が終わり二人は再び歌い出した。二十年近く前に大ヒットした披露宴定番のバラードである。あかねたちは当時小学二年生だったが、クラス中で口ずさんでいたものだ。再び間奏が入ると「懐かしいね」と祥子がつぶやいた。歌い終わるとすぐに同じ曲が流れ、二人は再びマイクを握った。それを五回繰り返すと祥子は画面を見つめたまま言った。

「ねえ、私たちって何やってるの?」

「……何やってるのかしらね」

 画面では、もはや見慣れた男女が手をつないで海辺を走り回っていた。古くさいのは仕方ないにしても、彼らのアップは見るに堪えず、特に女の極端な受け口に寒気がした。

「もう無理。あと一回で終わりにしよ」

 祥子が吐き捨てるように言うとあかねは頷いた。まるで感情を込めずに歌い上げ、リモコンで演奏を終わらせた。ストローを噛みしめ祥子は腕時計を覗き込んだ。

「あと十五分くらいある。あかねちゃん、何か歌う?」

「ううん。もう疲れた。祥子ちゃん歌っていいよ」

「私もいい。ってか、私たちってエラいよね。仕事でくたくたなのにちゃんと練習してさ」

 祥子がマイクをテーブルに置いた。スイッチが入ったままだったので嫌な金属音が響いた。

「他の三人は、やっぱり来られなかったんだね」

 あかねはピラフを口に入れた。案外美味しくて驚いた。

「来られないんだか、そもそも来る気がないんだか。ぶっつけ本番なんてありえなくない?」

祥子は鼻で嗤った。今週末に控えているヨガ仲間の披露宴で、あかねたち五人は新婦にみんなで歌ってほしいと余興を頼まれた。集まって練習をということになったが皆の予定が合わず、結局あかねと祥子は二人きりで練習をすることになった。他の三人のうち二人は主婦とその娘の大学生、もう一人は介護職で休みが不定期であるため皆が揃うのは元々無理があったのだが、ラインのやりとりで“ 面倒”というのがありありと伝わってきた。        

 フロントから終了時間五分前を告げる電話がかかってきたので二人は退出した。会計を済ませ駅に向かって歩き出した。この後ゆっくり食事でもしたかったのだが、互いに疲れ果てて口をきく気力もなかった。

「じゃ、当日ゆっくり話そうね」

「うん、お疲れさま」

 駅の改札を通りそれぞれ別の階段を降りていった。あかねは急行電車に乗った。案外空いていたが座れなかったので、入り口付近に寄りかかりスマホをバッグから出した。爪を見ると、昼間につけ直したラインストーンはなんとか保っていた。スマホのネイルサロン予約サイトで先日行った店を検索する。改めて口コミを読むと「最高です。上手だった。お店もきれい」「ネイリストさんの感じが良いです。」「めっちゃ可愛いネイルでアガりました。安くて長持ち、おすすめ☆」など、良いことばかり書いてある。あかねはこういったものを鵜呑みにはしないが、店を選ぶ時には多少参考にしている。今回は失敗だった。三千円と安いので初めから期待などしていなかったのだが、三日で取れるなど今までなかった。以前行った青山のサロンはホテルのような綺麗さであり、社員教育が徹底されていた。感じのよいネイリストが二人がかりで施術してくれ、ハーブティーまで出てきた。仕上がりも申し分なかったが、初回なのに一万円もした。給与は手取りで二十万円前後、都内で一人暮らしのあかねは当然余裕などない。次回からは一万五千円になると言われたが、それでもなんとか捻出して翌月に予約を入れようとしたら、あっという間に店はつぶれていた。

『先日伺いました。店内はまるで清潔感がなく雑然としていました。

 担当のネイリストの方は終始ご自分の話をされ非常に疲れました。隣の席のネイリストの方は大声で率先して性的な話をされており驚愕致しました。親しげだったので友人同士なのかも知れませんが、公共の場でああいった話は控えるべきだと思います。言葉遣いが乱暴なのも気になりました。ネイルのデザインは気に入りましたが、あいにく三日で取れてしまいました』

 口コミなど書くのはこれが初めてだった。登録ボタンを押すと妙にすっきりとした。


(5へ続く)

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