ご祝儀  〜わたし以外のオンナは死んで〜 

雛子

第1話

 その男はあかねに三万円という値段をつけた。

 渋谷のスクランブル交差点で青信号に変わるのを待っていると、茶髪にアロハシャツの、三十代後半くらいのいかにも怪しげな男が話しかけてきた。「めっちゃ、美人。可愛い。タイプなんだけど」信号が変わって歩き出してもしつこくついてくる。水商売のスカウトかと思ったらそうではないらしい。三万円払うからお願いと懇願され、あかねは振り切って走り出した。


 待ち合わせの居酒屋で菜々はすでに飲んでいた。あかねは席につくなり、先日別れたばかりの男の話をした。

「案外あっさりしてたね」

 梅酒ロックのグラスをカラカラさせながら菜々は笑った。

「そうなの。あんなに毎日狂ったようにラインが来てたから揉めるんじゃないかと心配してたんだけど、拍子抜けした」

 あかねはほとんど衣だけの唐揚げを口に入れる。スポンジを噛んだような奇妙な感触の後、じゅっと油が染み出した。

「こじれなくて良かったじゃん。今の若い男ってそんなもんじゃないの」

 菜々は所々に醤油らしき茶色いしみが付着したメニュー表を覗き込んだ。テーブルにはまだ手をつけていない皿がある。女同士でしか行かない安居酒屋で、彼女は目についたものを次から次へと注文する。

「若いって言っても私たちと二歳しか変わらないけどね」あかねは唐揚げの食感をビールで流し込んだ。

「違う違う。私たちよりかなり上の世代の男たちのが情熱的、悪く言えばしつこいって話」

 菜々はメニュー表越しに言った。それはかなり大判のため鼻から上しか見えない。暗闇の中で彼女の目元のラメが鋭く光っている。

「そうかもね」

「ちょっとトイレ」

 タッチパネル式の機械でさっと注文を済ませると菜々は席を立った。べたべたとしたテーブルにあかねはぼんやりと頬杖をついた。三年以上前に別れた、八歳年上の男からはいまだにメールがくる。別れた直後はそれこそ毎日のように「愛してる」「やり直したい」と送られてきた。返事をせずにいたら徐々に減っていったが、今度は毎年誕生日に「おめでとう」とくるようになった。一年に一回だけ、別れた女の誕生日をひっそりと祝うことを糧に男が生きているような気がして、ぞっとした。

「並んでたあ」

 菜々がふらつきながら戻ってきた。ジーンズの上は、南国風の大輪の花が描かれているタンクトップだ。九月に入っているというのに真夏のような装いだが、ゴルフで焼けた肌に似合っている。彼女は座るなり追加で運ばれてきたアスパラベーコン串を口に放り込んだ。口元がべとついて油かグロスかわからない。

「ところで何で別れたわけ?見た目も性格も好青年ぽい感じだったじゃない」

「そうなんだけどね、無駄に横文字が多くて」

「は?」

 隣のテーブルでは大学生風の若者たちが酔って奇声を発してる。

 あかねは菜々に顔を寄せ声をやや大きくした。

「だからね、会話の中に意味不明な横文字が多いのよ。アジェンダだのエビデンスだのオーソライズだの」

 菜々は串をくわえたままぽかんとした。

「……あー、いるよね。その人って外資系のITとかだっけ?」

「区役所の年金課」

「ええっ、年寄り相手にアジェンダだのなんだのってまくし立ててるわけ。やばいでしょ。そりゃ職場で浮いてるだろね」

「それで一気に冷めた。バカみたいでしょ」

「いや、そんなもんでしょ。一度無理ってなると無理だもんね」

 彼女が長い髪をかきあげた。手入れに毎日一時間はかけるという彼女の髪は毛先まで艶がある。隣の男たちはこちらを見てひそひそと話している。「オマエ、どっちがイケる?」などと聞こえてきた。黒と金が混ざった汚い髪色の男を、あかねは気づかれないように睨んだ。

「買い物してたんでしょ、なに見てたの」

「あ、これ」

 菜々は紙袋の中からパンプスを持ち上げた。全体にゴールドのラメが敷き詰められ、前方にビジューが光っている。フォーマル用だとすぐわかった。

「綺麗だね。結婚式の?」

「そう、来週のね。やっすいけどね。それにしてもほんと面倒。あかねもあるんでしょ」

「うん、ヨガ仲間の結婚式。その翌々週もあるの、会社関係のが。

憂鬱」

 隣からの煙草の煙を避けながらあかねは溜め息をついた。

「そのヨガ教室、もうつぶれたって言ってなかった?」

「うん、三ヶ月前に」

「その仲間たちとまだ交流あるわけ?」

「全然。たまにラインするくらい。その結婚するユナって子のこと、みんな内心苦手みたいだし」菜々は眉をしかめた。

「そんな結婚式、ダルくない?」

あかねは苦笑した。彼女のこういうズバズバ言うところが好きだった。

「だよね。なんか半年前に誘われて、その時飲んでてみんなでおめでとーって盛り上がって、流れで行く感じになっちゃって。後々冷静になったんだけど、今さら断れない空気で……あるじゃん、女同士のそういうの」

「わかる。教室がつぶれた後なら行かなくてよかったのにね」

 お互い溜め息をつきながら、しなしなになったポテトに手を伸ばした。菜々は頬と目を赤くさせながら、

「きついね。こちらは今月は一回なんだけど、彼氏の方が十月、十一月とほぼ毎週あるんだけど。ありえなくない?一緒に暮らしてるからさ、ほんと私もきついよ。温泉旅行も延期になっちゃった」と、乱暴にグラスを置いた。

「あーあ、しばらくご祝儀貧乏だ」

 あかねは水の入ったグラスを口に寄せた。ザリガニの水槽のにおいがして吐き気がした。

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