閑話06 佐藤葵の場合

 自分に落ち着けと言い聞かせながら、深呼吸して落ち着く。


 布団をどけて、暗くなっていた部屋の電気をつけてベットのうえに座りなおした。かなり長い時間、布団に篭った姿勢で居たかと思った。だけど、机の上に置いてある時計を見ると十分も経っていなかった。


 急にゲーム機の事を、思い出した。


 さっき見た兄さんの雰囲気を見ていると、なんだか返してもらえそうな気がした。奪い取られたゲームをすぐにやりたいと思う気持ちが強くなり、思い切って兄さんに言うことを決意した。


 扉を開けて、廊下を見ると誰も居ない。まだ下で食事中なのかな。階段を降りる。丁度、ダイニングから兄さんが出てくるのが見えた。


 ここで私は、返せ! と言ってやる。男相手に、ガツンと言ってやるんだ。


 自分を奮い立たせるが、兄さんの顔を見ると、急に怖くなった。


 そう言ったら、また殴られるかもしれない。女のくせに、男なんかに負けるなんて情けない。けれど、怖かった。


 最悪な状況を想像していると、兄さんから声をかけてきた。


「葵ちゃん、だよね」

「……ッ!」


 生まれてから今まで記憶している中で、兄さんからは”おまえ”としか呼ばれたことがなかった。なのに、いきなり名前を呼ばれた。


 なんだか、悲しくなってきた。何で、今まで私の名前を呼んでくれなかったのか。何で、今更になって私の名前を呼ぶのだろうか。


 いつも、泣かされてばかりだった事を思い出した、これもそうなのだろうか。


「……返して」

「えっ?」


 その一言を、やっとの思いで口に出す。私は兄さんが嫌いだった。だから、もっと色々なことを言ってやりたかった。けれど、今は恐怖や悲しさで何もいえない。


「私の、取った。……返して」


 鼻がムズムズして目が熱くなり、泣きそうになってしまう。私は慌ててうつむき、顔を隠す。それでも、何とかゲームだけは返してもらわないと。


「ゲーム……、私の」

「もしかして、ゲームポケットの事?」


 兄さんの言葉に、ウンと頷く。そう、それの事だ。


「わ、分かったすぐ返すよ。部屋にあるから取ってくる」


 部屋に帰って、寝てしまいたかった。けれど、ゲームも返してもらいたい。思いがごちゃまぜになり、とうとう我慢しきれず涙がこぼれてしまった。


 女の癖に泣くなんて、みっともない! 姉さん達に見られたら、馬鹿にされるだろうな。弱虫だと言われる。


 それが悔しくて、更に涙がこみ上げてくる。兄さんの部屋は近くにあるので、すぐ戻ってくるだろうと思った。腕でゴシゴシと、顔を拭く。兄さんにも、私が泣いたと気づかれるのはすごく嫌だった。


 目がすごく痛かったので、もしかしたら真っ赤になっているかもしれない。だけど今は、自分の顔は確認できない。


 兄さんが部屋から出できて、ゲーム機を手に持って戻ってきた。まだ何か、意地悪されるかもしれないから警戒する。


「はい、これでよかった?」


 そう言いながら、ゲーム機を私に渡す。それ以外には、特に何も言われなかった。本当に返してくれるのか。ゲーム機に刺さったままのソフトを抜き取り、確認する。ずっとやりたかったゲームだ。


 もう一度、兄さんを見る。やっぱり見たことないような、ニコニコした顔だった。その顔を見ると、やっぱりもう何も言えなくなって私は、何も言わず部屋に帰った。


「……ッ!」

「あっ」


 背中から兄さんの声が聞こえたような気がしたけれど、一度も振り返らずに自分の部屋まで戻った。

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