閑話02 佐藤香織の場合

 佐藤優が、倒れている。


「ゆ、ゆうくん……?」


 漏れ出た声は、細くかすれていた。台所でうつ伏せに倒れている様は、いつか見たドラマの死体が横たわっているというシーンを香織に思い出させた。


 普段は息子の身体に触れると、強烈な罵倒が返ってくるため、極力触らないように過ごしている。だけど今は、そのことは全く頭から抜け落ちて駆け寄り、彼の身体を揺するが全く起きる気配はない。


(どうしよう……どうしたら……)


 香織が混乱していると、頭上から娘の春が声を掛けてきた。


「母さん、どうしたんだい」

「ハルちゃん……ゆうくんが!」


 それだけしか言えず、どうしたら良いか縋るように娘の春を見やる。何もできない自分が、とても情けなく感じた。


 春はその後、息子の優を見て軽く体を揺すった後言った。


「彼が私達にこんなに近づかれて、まして触られて起きないのは異常だよ。救急車を呼ぼう。今、電話してくるから優を見ていてくれ」


 そう言うと春は、電話を掛けに部屋から出ていった。香織は、倒れた息子から目を離さずに見ている。今は寝ているだけのようにしか見えないが、様態が変化するかもしれないから見落とさないように、観察し続ける。


 救急車が来るまで、香織は様々な恐ろしい想像をして顔を青ざめさせた。


(もしかしたらこのまま目を覚まさないかもしれない)


 病院へ運び込まれた後も、ただ目を覚まさず眠っているだけだと医師に言われた。原因が分からないない、治る見込みも分からない。


 そんな医師の言葉に苛つきを覚えるけど、私には他にできる事もなくて、仕方なく家へ戻ることになった。


 佐藤優がが目を覚ますまで香織の一週間は、悲惨な日々だった。


 もしも、愛する息子がこのまま目を覚まさなければ。

 もしも、このまま息絶えるような事があれば。

 私は、生きていくことは出来ないだろうと香織は考えた。


 香織は、息子の優が生まれた日の事を思い出していた。夫の結城ゆうきは、香織との間に積極的に子供を作ることはしなかった。


 次女の沙希と三女の紗綾が生まれた後、夫は家から出ていった。今は、関係を断ち切られた状況。


 生まれてきた三人の娘には悪いが、どうしても男の子が欲しいと思ってしまった。彼女たちの代わりに息子が生まれてきたら、と何度も思ってしまった。それで香織は、精子ドナーによる体外受精の利用を決行した。


 そして生まれてきたのが、優だった。


 新たに子供が増えるという喜びに加えて、初めての男の子だったという事が香織を歓喜させた。


 自分の息子なので、あらゆる事をした。一緒にお風呂にも入ったし、自分の母乳もあげた。一緒の布団で眠りもした。


 男の人との初めての体験の連続。彼が成長してから、一緒に外へお出かけもした。初めて男の人とのおでかけに、胸がときめいた。相手は息子だったけれど。

 

 周りの女性の羨望の眼差しに、優越感も感じた。


 優は思春期に入って、女性を嫌悪するようになった。男性へ興味が増したようで、苦しい思いもした。ただ眺めているだけで、夫の結城さんに感じなかった素晴らしい様々な感情を、優は感じさせてくれた。


 香織は優の回復を祈り続ける。食事がうまく取れず、部屋へ閉じこもって少しずつ衰弱していくような生活を送っていた。


「母さん!」

「……なに?」

「優が、目を覚ましたそうだ! 

「えっ!?」


 突然、春が部屋に入ってくる。優が目を覚ましたと、普段は無表情な彼女が喜びを滲ませ伝えに来た。病院から連絡が来たらしく、すぐに香織は病院へと向かった。



***



 病院に到着すると、医師が色々と説明してくれた。だが香織は、優にすぐ会いたいという想いで頭がいっぱい。心、ここにあらずと言った感じだった。


 病室について、扉をノックをする。


「ゆうくん、入ってもいいかしら」

「あっ、どうぞ」


 部屋の中から、もう聞くことが出来ないかもしれないと覚悟した愛する息子の声が聞こえてくる。それだけで、泣きそうになった。

 

 気を引き締めて扉を開けると、ベットに座る優を見る。


「ゆ、ゆうくん……」

「え? あ、あの……」


 我慢しきれずに、香織は泣いてしまった。


「よ、良かった……。本当に……ほんとうに……」


 感情は喜びに支配され、涙が溢れでた。



 しばらくして涙が何とか止まった時、優が声を掛けた。


「あの、どちら様でしょうか」


 話半分に聞いていた医師の言葉、記憶喪失という可能性について香織は思い出す。それでも、少しだけショックだった。その感情を表に出さないように、対応する。


「えっ!? あっ、先生が言っていた……。あの、私はあなたの母よ」

「はあ? 母親…?」


 倒れる前の優は、常に不機嫌と怒りを感じさせるような苛立った顔ばかりだった。


 しかし今の優には、今までに見たことのないような大人びた気遣いと心配の表情があった。


 香織は倒れる前と今の優の雰囲気に違いを感じたけれど、それには触れなかった。久しぶりに交わした息子の言葉に違和感があったが、香織は考えないようにした。


 じっ、とこちらを見る優。顔を見られて少し恥ずかしく思いながらも、香織は声を掛けた。


「あの、ゆうくん……?」

「あっ、ごめんなさい。あなたが僕の母さんなんですね?」

「そうよ、ゆうくん。覚えていないかしら?」

「……」


 優の心ぼそいという顔を見た香織は、何としても助けてあげたくなるような、女の保護欲をかきたてるような表情に、今の不安を取り払ってあげようと様々な事を説明した。


 それは、何故優が倒れたのか、倒れてからどうしたのか、どんなことでも話して、頼ってくれていいという事だった。


 医者が戻ってきた時、一方的に話してしまったことに気づいて少し後悔した。優と医者が話している後ろで、二人の会話を聞く。


「それじゃあ、この後は男性医師に担当をお願いするがそれでいいだろうか」

「え? 日野原先生がいいです」

「男性医師を希望しないのか?」

「あの、日野原先生がいいのですが……ダメですか?」

「では、これからよろしく頼む。早速、検診の準備をしてくる。待っていてくれ」


 優の男性医師を拒否するという言葉に、香織は信じられないという思いを抱いた。


「はい!よろしくお願いします」


 最近は、家族でさえ近寄ることを拒否するぐらいの女嫌いになっていた優である。当然、男性医師を選ぶだろうと考えていた。それに、女性医師のセクハラの危険性を考えた。女性の医師なんて、危ないんじゃないか。


 だけど、男性の意志を第一に尊重するという男性保護法の決まりがある。だから、香織は言葉を挟むことは出来なかった。優が決めてしまったことだから、担当を女の医師に任せることに。


 それ以上に、優の天使のような笑顔が医師に向けられていることに多くの嫉妬心を抱いていた。なぜ、そんな女の医師に笑いかけているのか。女性に対する警戒が薄いんじゃないかと心配になった。だけど、やっぱり何も言えない。



***



 優が目覚めてから、身体に異常が見られないかしっかり診てもらう必要があった。本当は、家へ連れて帰りたいと思った。だけど、毎日お見舞いに通うことにした。


 お見舞いの間に、香織は優に対して二つの事をしてもらうようにお願いする。


 一つは、敬語をやめること。目覚めてから、優は香織に対してずっと敬語を使って話していた。優の思いやりや気遣う心を感じたけれど、少し壁を感じる言葉使いだ。香織は、思い切って普通に話してとお願いしてみた。


 最初はぎこちなさがあった。けれど、回数を重ねていくうちに家族のように普通に話せるようになった。お願いしてよかったと香織は思った。


 もう一つは、「香織」と名前で呼んでもらうこと。少しでも家族としての距離感を取り戻すためにとか何とか、色々理由を述べて呼んでもらうことにした。


 本当は、今の優に対して少し恋人気分を感じてみたい、という香織の我欲的な思いからのお願いだった。だが優は、「香織さん」と呼んでくれるようになった。


 お見舞い中、香織は甲斐甲斐しく優を世話した。世話をしながら、香織は思った。記憶を失う前の優と今の優、比べると今の優の方が何倍も素敵だと。


 香織は、悪いこととだとは思ったが、欲望には素直だった。いつまでも彼が記憶を失ったまま、今の優のように居て欲しいと考えるようになった。すぐに否定したが。


(ダメダメ、記憶が戻らないようにとお願いするなんて。絶対に、優の記憶は戻ったほうが彼のためなんだから。ちゃんと、記憶を取り戻せるようにお願いしないと)


 だけど、今の優が魅力的すぎたから。


 2日の経過観察が行われて、優は体に異常は見られない事がわかったため退院することになった。

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