第4話 硝子の中に見る、昨日
俺たちが随分と成長した頃、彼女はいつもと違う時期にやって来た。
肌寒い気候になった季節に、いつもより着込んだ彼女を目にするのは初めてだ。
無理矢理荷物を詰め込んだのかパンパンに膨らんだ鞄を見ると、町に到着した直後に俺の元に遊びに来てくれたのだろうか。
俺はいつもの硝子玉と、次に会うとき渡そうと考えていたとっておきのプレゼントを収めた巾着袋を手土産に、彼女と話を始める。
「こうしてホロウの硝子玉を眺めている瞬間が、とっても落ち着くわ。でもそれももう、終わり……」
「終わり? また遊びに来れば良いじゃないか」
「私、婚約が決まりそうなの。だから、もう来れないわ……」
「え……」
婚約と言う言葉に、俺の思考が一瞬止まる。
「こん、やく……?」
当たり前のように毎年続いていた彼女との交流は、今後も続くものかと錯覚していた。
けれども俺と彼女は、本来は住む世界の異なる身分だ。
俺たちは彼女の婚約を機に、会うことは出来なくなってしまう。
俺にとって彼女の婚約話は、いつかの彼女の死の予告よりも衝撃的な内容だった。
俺はまだ、彼女に見て欲しい硝子玉があった。
彼女の意見を聞いて、彼女の好みを反映した物を作り出して、これからも俺の隣で硝子玉を空に翳す彼女の横顔を眺めて……。
そんな風に彼女と共に、穏やかな日常を送りたかったんだ。
「ねえ、ホロウ……」
少し言いよどんでいた彼女が、意を決したように口を開いた。
「あの、ね……」
彼女の澄んだ瞳が、俺を真っ直ぐに捉える。
「私の心の、在処になってくれませんか?」
彼女が俺に向けて、助けを求めるように手を伸ばす。
「私のこと、攫ってくれませんか……?」
彼女の言葉に息を飲んだ。
周りを見ると、いつも彼女に付き従う侍女騎士の姿はない。
彼らは黙認しているのだろうか。
いや、きっと。彼女は婚約に耐え切れずに抜け出してきたのだろう。
未来への希望を鞄一杯に詰め込んで、俺に期待を寄せて飛び出してきたに違いない。
豪華絢爛な輝きを放つ貴族社会と言う名の宝石箱に、自身の心と言う名の宝石を置いておけない。自分の居場所ではないと言う彼女のその姿は、まるで宝石箱の中に一つだけ異物のように混在する、硝子玉のようだった。
救ってあげたい。掬い取ってあげたいと思った。
彼女と共に歩む未来を夢を見ていた俺が、彼女の手を取ろうと指先を伸ばす。
しかし……。
そこまで考えたと言うのに、伸ばしかけた俺の手が不意に止まってしまう。
あるべき場所へ連れ戻して欲しいと願い輝くその瞳を、その宝石を。
果たして俺は、穢れなきまま丁寧に掬いだすことが出来るのだろうか。
彼女と言う名の宝石は、貴族社会に居てこそ輝いていないだろうか。
俺が連れ出すことで、彼女は光を失ってしまわないだろうか。
「……」
……いや、これはただの言い訳だ。
たかが平民の俺が、貴族である彼女を無事に攫い出す自信がないだけ。
リースが貴族の家から逃げ出して来たと言うのなら、きっと俺たちは追手に付き纏われるだろう。
もしかしたら国を追われることだってあり得るかもしれない。
そんな中で、俺は彼女を幸せに出来るのだろうか。
二人穏やかな時間を得ることが、出来るのだろうか。
彼女の手を取り連れ出すことによって、彼女を不幸にしてしまうのではないのだろうか。
「……」
「……なんて、ね」
戸惑いに揺れる俺の感情を察したのか、彼女は手を引いてしまった。
彼女が腕と共に後ろに一歩引いたことによって、伸ばした手は触れることはなくなってしまう。
「……泣き言言って、ごめんね。婚約が不安で、ちょっとだけ、誰かに頼りたかったのよ」
泣き笑いのような、見ていると心を締め付けられる表情を見せられる。
「でももう、大丈夫よ」
最後だと言うのに、俺は彼女と距離を作ってしまったことに気付く。
もう前と同じ距離へと歩み寄ることは出来ないかもしれない。
しかし……。一つだけ、やるべきことがあった。
「実は……リースに、渡したいものがあるんだ」
「えっ」
「婚約祝いだと思って、受け取って欲しい」
「そ、う……」
僅かに嬉々とした表情を浮かべかけたリースが、婚約祝いと言う言葉に落胆したように表情を落とす。
果たして、彼女を受け入れなかった俺からの贈り物を、受け取ってくれるだろうか。
そう逡巡しながら差し出した巾着袋を、彼女は両手で丁寧に受け取ってくれた。
すぐに紐を解いて中から一つの硝子玉を取り出すと、彼女は目を見開いてその気泡を凝視する。
「……!」
美しい宝石に負けじと、硝子玉にはそれはそれは美しい加工が施されている。
マリンブルーの硝子玉にあえて含ませた気泡は、水中に沈む光景に見立て。
彼女の好きな太陽の光に翳すとスカイブルーへと姿を変えて、気泡は雲のように浮かぶ。
どんなに美しくとも、硝子玉は宝石の紛い物。
そう嘲りを受けようとも、職人が宝石箱の主のために考え抜き、作り上げた、ただ一つの宝物。
俺の硝子玉の気泡が好きだと言ってくれた、彼女のためだけを追求した、最高の傑作品。
本当は婚約祝いでもなんでもない。
ただただ、彼女の心に一歩でも近付きたいと言う下心があった故の、贈り物……だった。
けれども婚約する彼女への下心を隠し、祝いとして送ろう。
「ありがとう……」
強気に見せて微笑んだ彼女だが、悲しさを堪えられなかったのか瞳から一滴涙が零れる。
「ぜったい、ぜったいに、大切にするわ……!」
空気を含んだその雫は、まるで一つの硝子玉のように地面に吸い込まれて行く。
手を取れなかった罪悪感を胸に、俺は彼女の涙を記憶の底に抱え続けなければいけない。
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