狐に嫁入り

 極東のとある村では、豊穣神へ捧げる供物の準備や演舞の練習でてんてこ舞いの状態だった。



「供物の米と酒の用意は?」


「権蔵の家で作ってる最中の酒がいい出来らしいぞ」


「これから舞の練習かい?」


「豊穣神様に奉納するから気合いを入れないと」



 村の誰も彼も弾んだ声で会話を交わす。


 この村の付近には、極東で最も信仰を集めている豊穣神の社があるのだ。豊穣神のお膝元ということもあって極東の各地から参拝客が訪れ、豊穣神の恩恵を受けている村人のほとんど全員がかの豊穣神を強く信仰して止まなかった。

 そして迫る11月30日が、豊穣神が『豊穣の神』として祀られた記念日となる。日頃から恩恵を与えられているが故に、村人は質の良い米と酒と美しい巫女たちによる演舞を奉納するべく奔走していた。


 そんな慌ただしく時間が過ぎ去っていく中で、悲痛な声が落ちる。



「お願いします、もう少しだけお米を売っていただけないでしょうか」


「ダメだダメだ、これは豊穣神様に奉納する大切な米だ。薄汚い庶民に売れる訳がないだろう」



 米問屋の前でそんな押し問答を繰り広げる男女がいた。


 男の方は店が儲かっているのか恰幅がよく、仕立てのいい着物を身につけている。一方で女の方は裕福な暮らしを送っていないようで、薄汚れた着物を身につけて髪を適当に引っ詰めている。手には汚れた袋を握りしめており、中身には僅かばかりの米が入っていた。

 会話の内容から判断して、女が米問屋の店主に米の販売量を増やすように要求していた。だが豊穣神にとっての祝いの日が近づいているので、米問屋の店主は首を縦に振らない。少しも米を売るつもりはないようだ。


 悲痛な声で「お願いします」と何度も頼み込む女を鬱陶しく思ったのか、米問屋の店主は彼女を突き飛ばした。



「うるさい、売れないったら売れないんだ!!」


「あッ」



 突き飛ばされた衝撃で女は地面に倒れてしまう。その時に握っていた袋から手を離してしまい、せっかく購入した米が散らばってしまった。

 女は米をなくさないように、と懸命に掻き集める。米粒は土に塗れてしまい、薄らと茶色がかってしまっていた。洗えば食べられないこともないが、病気の原因になりそうな雰囲気ではある。


 そんな彼女を、米問屋の店主はおろか通行人たちが嘲笑った。



「あの余所者よそもの、何をしているんだか」


「可哀想にねぇ」


「土に塗れた米を食ってるのがお似合いさ」


「余所者のくせに豊穣神様のお膝元にまだ居座るつもりかい」



 女を指差して村人たちは笑う、それはもうおかしそうに。

 嘲笑の対象にされた女は米を袋に入れ直すと、キュッと唇を引き結んで逃げるようにその場から立ち去った。


 女の名前は樟葉くずのは、この村の外から移動してきた『余所者』である。



 ☆



 樟葉の自宅は、村外れの掘立て小屋だった。



「ただいま」


「お帰り、姉ちゃん!!」



 仕事から帰ってきた樟葉を出迎えたのは、弟の明葉あけはである。

 今年で10歳を迎える明葉は、姉の樟葉に抱きついて「お疲れ様」と労いの言葉をかけてくれる。腰の辺りにある弟の小さな頭を撫でて、樟葉は小さく笑った。


 次いで、掠れた声で「お帰り」という言葉が飛んでくる。



「すまないねぇ、私が病弱なばかりに……」


「ううん、お母さん。私は平気よ」



 掘立て小屋の奥にはボロボロの布団が敷かれており、そこにはやつれた女が寝かされていた。今は上体を起こしているが、苦しそうに咳き込む姿を見る限り体調が万全ではないことは明らかである。

 樟葉と明葉の母親である乙葉おとはだ。重篤な病に冒されており、薬を飲んで生き長らえている状態である。呼吸をするのも苦しいのか、彼女の口からは「ひゅー、ひゅー」と木枯らしのような音が漏れる。


 樟葉は母親の元に駆け寄ると、



「お母さんは寝てて、今ご飯を作るからね」


「米はあんたたち姉弟で食べなさい、私はもう長くはないんだから病人に気を使うことなんてないさ」


「そんなことない、お母さんの具合はきっと良くなるわ」



 樟葉は、母の背中を撫でてやりながら励ましの言葉を投げかける。


 この村に越してきた理由は、村全体が裕福だからだ。豊穣神様とやらのおかげで村人たちは食うに困らない生活を送り、みんなして健康だと聞いたからである。母の病気が治り、弟を腹一杯に食わせてあげられるのではないかと期待して遠い東の地から移動してきたのだ。

 それがどうだろうか、この村は驚くほど余所者に冷たい。豊穣神の恩恵は元からこの地に住む村人たちのみにもたらされ、他の土地から越してきた樟葉たちにはこれっぽっちも恵みがない。今日も少ない米を3人で分ける生活である。


 それに、余所から移ってきたというだけで笑い者にされ、除け者にされている。生きづらいことこの上ない村だ。



「大丈夫、きっと大丈夫よ」



 何の根拠もないけれど、樟葉は無理やり笑顔を作って家族を励ますのだった。



 ☆



 11月30日が到来した。


 村人はこぞって「めでたい日だ」「めでたい日だ」とはしゃいでおり、米俵や酒樽を荷車に次々と積み上げていた。村の娘たちは綺麗な着物に化粧まで施し、烏の濡れ羽色をした艶やかな黒髪をかんざしでまとめて華やかな雰囲気がある。誰も彼も表情は明るく、今日この時を楽しみにしていたとばかりの空気が漂っていた。

 特に豊穣神へ演武を奉納する予定の巫女に選ばれた少女たちは、綺麗な巫女装束を身につけて、鈴や大幣おおぬさなどを携えていた。酒樽や米俵、その他様々な供物を乗せた荷車の横に待機しているので、一緒に豊穣神の社へと向かうのだろう。


 そんな賑やかさを横目に、樟葉は今日も生きる糧である米の入った袋を握りしめていた。騒がしい空気に包まれた村から逃げるように、通りの端っこを摺り足で進んでいく。



「お米を売ってもらえてよかった……やっぱり少ないけど……」



 だが、これで今日という日を生き長らえることが出来るのだ。

 いつか母の病気が治り、弟を腹一杯に食わせてあげられる日が訪れることを待つのみである。今は苦しいけれど、懸命に生きていればきっと何かいいことが起こるはずだ。


 すると、



「お願いじゃあ、米を売ってくれんかのぅ」


「ダメだダメだ、うちの米は豊穣神様のところに持って行くんだ。売れないよ」



 昨日、樟葉がやり取りをしていた米問屋の前で、店主と老爺が何やら揉み合っている様子だった。


 痩せぎすの老爺はツギハギだらけで汚れた着物を着ている樟葉よりもさらにボロボロの着物を身につけており、今にも折れそうな細い杖を突いてヨタヨタと歩いている。足元には草履すら履いておらず、汚れた足裏には細かな傷さえ目立つ。

 真っ白に染まった頭髪は皮膚が見えるほど薄くなってしまっており、逆に顎へ蓄えられた立派な髭はまるで仙人のようである。眉毛が異常に伸びているせいで目元がハッキリと見えず、浮浪者と言っても過言ではないだろう。


 店主が抱えている米俵に手を伸ばす老爺だが、苛立ちを露わにした店主は老爺を突き飛ばす。



「退け、ジジイ!!」


「ぬおおッ」



 突き飛ばされた老爺はふらりと倒れそうになってしまう。

 その姿を見た樟葉は、手にしていた米の入った袋さえ投げ捨てて倒れそうになる老爺を支えていた。ほぼ反射的の行動である。あのまま勢いよく倒れていれば、老爺はきっと無事では済まなかった。


 老爺を突き飛ばした米問屋の店主を睨みつけた樟葉は、



「相手は老人ですよ、少しぐらい売ってあげたらいいじゃないですか!!」


「うちの商品をどうしようが俺の勝手だろう」



 米問屋の店主は口の端を吊り上げて笑い、



「薄汚え奴ら同士、お似合いだな」



 その言葉が周囲の村人にも伝わったのか、侮蔑の視線が樟葉と老爺に突き刺さる。くすくすと押し殺したような笑いも聞こえてきた。


 どうなろうが関係ない。樟葉は自分のやったことに後悔していない。

 ただ後悔があるとすれば、せっかく売ってもらった米をまた地面にぶち撒けたことぐらいだろう。洗えば何とかなるだろうが、やはり地面に落とした食べ物を口にするのは気が引ける。


 樟葉は老爺をちゃんと立たせてやり、



「大丈夫ですか?」


「助けてくれて感謝するのじゃ」



 老爺は細い杖で自分の身体を支えると、



「お嬢さんこそ大丈夫なのかえ? わざわざ大切な米まで投げ打ってまで儂を助けてくれたじゃろう」


「あ……ええ、はい、平気です」



 樟葉は無理やり笑顔を作る。


 本当は大丈夫ではない。洗えば何とかなるとは言うものの、弟と母親にはこの程度の米しか食べさせてあげられないのがやるせない。大事な食料を無駄にしてしまったが、人命には変えられないのだ。

 樟葉は地面に散らばってしまった米を拾い集める。少しでも食い繋いでいかなければ命に関わるのだ。この村は、余所者には風当たりが強くて米すらまともに売ってくれないのだから。


 米を拾い集めた樟葉は、



「お爺さん、あまり人通りの多い場所に行ってはダメですよ。お家はどこですか? 家まで送りますよ」


「ああ、いいんじゃよ。すぐに着く場所じゃしのぅ」



 老爺は樟葉の顔を見やり、



「お嬢さんはお若いのに、随分と苦労しているんじゃのう。それでは嫁の貰い手すら見つからんのでは?」


「お嫁なんて、夢のまた夢ですよ」



 樟葉は首を横に振る。


 母は重篤な病に冒されて動けず、弟はまだ幼い。働けるのは樟葉ただ1人だけである。樟葉が金を稼がなければ、家族は揃って飢え死にしてしまう。

 農作業を手伝っているものの、余所者だからという理由で給金は僅かばかりしかもらえない。花嫁衣装を着るのにも無料ではないのだから、生きていくのにやっとの金額しか手に入らないのに結婚なんて出来る訳がない。旦那様と一緒に添い遂げる生活など、儚い夢となった。


 老爺は豊かな顎鬚あごひげを撫で、



「お嬢さんや、今夜この村の社の入り口で待っているが良い」


「え?」


「家族も一緒に連れてくるのじゃ。絶対じゃよ」



 黄ばんだ歯を見せて笑う老爺は、



「助けてくれた礼をさせておくれ。悪いようにはせんわい」


「は、はあ……」


「じゃあ待っておるぞ」



 老爺はそう言い残して、ふらりと建物の影に消えてしまった。


 残された樟葉は「どうしよう」と呟く。

 村の社といえば神聖な場所とされており、余所者は近づくことすら許されない。村人だって普段は近づくことすら出来ないのに、余所者扱いされている樟葉が社に近づけばどうなるか。


 でも、



「絶対って言っていたし……」



 老爺から一方的に結んできた約束を反故に出来るほど、樟葉は非情になれなかったのだ。



 ☆



 その夜のことだ。



「姉ちゃん、どこに行くの?」


「お社のところよ。昼間に助けたお爺ちゃんと約束があるの」



 幼い弟の手を引き、病に臥した母親の身体を支えながら樟葉は社に向かう。


 村人たちはすでに寝静まっているのか、家や店の明かりは完全に落とされて真っ暗だ。静かに落とされる月明かりだけが頼りで、樟葉は村の奥地にある社を目指す。

 眠っている村人たちに知れたら、今度こそ樟葉たちは生きていけない。あの老爺の約束を勝手に破れば樟葉も危険な道を歩かないで済むのだが、どうしても彼の約束を反故にすることが出来なかった。約束を破るような真似をすれば樟葉の良心が痛む。


 樟葉に身体を支えられながら摺り足で歩く乙葉は、



「樟葉、私まで連れて行かんでもいいだろうに……」


「ダメよ、家族も連れてこいって言われたんだから」



 母親が急に倒れないように、樟葉は彼女に肩を貸してゆっくりと社を目指していく。

 もしかしたら、あの老爺が母親と弟を助けてくれるかもしれない。樟葉自身はどうなってもいい、嫁になれと言うのであれば喜んでなろう。病に臥した母親がまた元気になって、弟が立派に成長してくれるのであれば文句はない。


 静かに気配を殺しながら移動していた樟葉たちは、ようやく目的地である社の近くにやってきた。



「暗い……」


「姉ちゃん、怖いね」


「離れちゃダメよ、明葉」


「うん」



 手を握る弟の指先に力が込められ、樟葉も彼の手を握り返してやる。


 目の前に現れた社は、夜の闇に沈んだ影響で不気味な様相を醸していた。古びた鳥居が木々に埋もれるようにして鎮座し、そのすぐ側では対になった狐の石像が設置されている。社へと繋がる長い階段が闇の中にぼんやりと伸びており、この先を進むのが躊躇われた。

 鳥居の前には、行手を塞ぐように米俵や酒樽が置かれていた。おそらく豊穣神とやらに捧げた供物だろう。まだ今日は豊穣神にとっての祝いの日なので、明日になれば片付けられてしまう代物たちだ。


 この社の付近で待つように言われていたが、昼間の浮浪者みたいな見た目をした老爺はいない。一体どこに行ったのか。



「そこにいるのは誰だ!!」


「ッ!!」



 背後から松明の明かりが当てられて、樟葉は息を呑んだ。


 弾かれたように振り返ると、村の屈強な男の2人組が松明を掲げて樟葉たちを睨みつけていた。まずい、見つかってしまった。

 2人組の片割れが、大きな声で「余所者が社に近づいたぞ!!」と叫ぶ。最初から寝ているつもりなんてなかったのか、その絶叫を聞いた村人たちが次々と松明を片手に社へ集合していた。


 村人たちは樟葉たちに鋭い視線を突き刺し、



「ほら見ろ、やっぱり米と酒が狙いだったか」


「ここにある米を盗めば、お前たちは食うに困らないからな」


「余所者はこれだから卑しい」


「早く死ねばいい」



 心にもない暴言が次々と当たる。

 どうやら村人たちは、樟葉たちが豊穣神の供物を盗みに来たと勘違いしている様子だった。樟葉たちがこの社付近を訪れたのは老爺に呼び出されたからであり、決して盗みを働こうなどというつもりはない。


 樟葉は「違います!!」と否定し、



「私たちはただ」


「余所者の言葉に耳を貸す奴がいるか?」


「その汚い身なりのことだ、米を盗むつもりなんだろう」


「盗人め」


「卑しい盗人め!!」



 誰も樟葉たちの言葉に耳を貸してくれる村人はいない。みんな揃って余所者扱いしてきた樟葉たちを、今度は盗人扱いするばかりである。

 何もしていないのに、どうしてここまで言われる必要があるのか。居場所を奪われる必要があるのか。この閉鎖的な村に、最初から居場所などなかったのだ。


 怯えたように樟葉へしがみつく弟の明葉の頭を撫で、母親の乙葉の肩を震える手で抱き寄せたその時である。



「何じゃい、騒がしいやっちゃのぅ」



 ぺた、ぺたという足音がすぐ近くで聞こえてきた。


 誰かが「あ!!」と声を上げる。村人たちの視線が外れ、樟葉たちの背後に投げかけられていた。

 樟葉もつられて背後に視線をやる。松明の明かりでよく見えるようになった社の石段を、見覚えのある人物が下りてくるのだ。細い杖で器用に自分の身体を支え、苔むした石段を裸足で下りる浮浪者のような見た目をした老爺がいた。


 石段を下りたところで、老爺はペタペタと足を鳴らして樟葉のところまでやってくる。それから村人たちが唖然とする中で、呑気に「いやぁ、待たせてすまんのぅ」と謝ってきた。



「暗くて階段が見えんかったわい。松明ぐらい持ってくればよかったのぅ」


「な、何してんだジジイ!!」


「あん?」



 ヘラヘラも笑う老爺に、村人の非難が集中する。



「そこは豊穣神様の社だぞ!!」


「巫女以外の人間は立ち入りが禁止されているんだ!!」


「神聖な場所を裸足で汚すな!!」



 村人たちは老爺に心ない言葉をぶつける。中には聞くのも耐えられないような罵詈雑言の嵐が起きたのだが、当の本人は特に気にした様子もない。

 それどころか、老爺は樟葉にニコニコと話しかけてくる始末である。「おお、おお、家族揃ってよく来たのぅ。2人を連れて大変じゃったじゃろ」と何でもない調子で言うのだ。この罵詈雑言が聞こえていないのだろうか。


 痺れを切らした村人が、



「相手は爺さんだ、殺してしまえ!!」


「余所者の処理はあとだ!!」



 松明を掲げた男たちが1人の老爺に詰め寄ろうとするのだが、



「何じゃい、乱暴な連中じゃ」



 老爺は気怠げに片手を持ち上げると、



「儂は争いが嫌いなのじゃ」



 すると、老爺に飛びかかろうとしていた村人たちが、まるで透明な壁にき止められたかのように動かなくなる。目の前の何もない空間に触れ、彼らは目を白黒させていた。

 村人たちは目の前の空間を叩いたり、体当たりしていたのだが、状況は変わらない。老爺どころか樟葉たちのところにさえ手が届かない様子だった。


 老爺はやれやれと肩を竦め、



「最近は米が不味いと思っておったら、こんなに醜い人間どもが作っておったとはのぅ。純粋な信仰心がないのじゃ」



 嘆く老爺の身体が変貌を遂げる。



「――頭が高いぞ、阿呆どもが。誰の前だと心得ておる」



 痩せぎすで汚らしい格好をしていた老爺は、真っ白な毛並みが特徴的な二足歩行の狐に変わった。薄紅色の双眸に真っ赤な隈取を施し、ふさふさの尻尾が9本も生えた妖狐である。

 その妖狐は、何と巫女装束を着ていた。白い着物に真っ黒な袴、汚れのない足袋に漆塗りの下駄まで揃えている。人間からかけ離れたその姿は、まるで神様のように神々しかった。


 その妖狐を前にした村人は、一瞬だけポカンとした表情を見せたあとに慌てて土下座をする。



「ほ、豊穣神様!!」


「どうか無礼をお許しください!!」



 村人たちの悲痛な声に、妖狐は「ならぬ」と突っぱねた。



「余所者にすら優しく出来ん村の行末なぞ知らん。食われとうなかったら疾く去ね」



 低く唸る妖狐に恐れをなし、村人たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。松明さえ投げ捨て、明かりの消えた家屋に飛び込み、言葉にならない嘆き悲しむ声が建物から漏れてくる。豊穣神として崇め奉られる妖狐を怒らせたことで、恩恵を受けられなくなるのが怖いのだ。

 社に残されたのは鼻を鳴らす妖狐と、あまりの状況が読み込めず固まる樟葉たちだけだった。もっとも、固まっていたのは乙葉と樟葉だけだったが、弟の明葉は妖狐のふさふさの尻尾に興味津々で手を伸ばそうとしていたので止めるのに必死だった。


 妖狐は樟葉を見下ろすと、にんまりと笑う。



「これで大事な話が出来るわい」


「だ、大事な話って……」


「そりゃもちろん、そのー、えー」



 村人に毅然とした態度でいた妖狐だが、何故かここにきて勢いが萎んだ。人間と同じ形をした手を開いたり閉じたりして、どこか落ち着きがない。



「そのぅ、お嬢さんや」


「はい」


「儂と夫婦めおとになってくれんか」



 飛び出た言葉は、何だかとんでもない内容だった。



「……え?」


「あ、あー、狐なんぞに嫁入りなど嫌じゃというのは分かる。じゃが儂はお嬢さんに一目惚れしてしもうたのじゃ、嫁として添い遂げてもらいたいと思うてしまったのじゃ」



 妖狐は自分の顔を覆い隠すと、小声で「恥ずかしいのじゃ……」と言う。

 狐は狐でも、相手は豊穣神として崇められている神様だ。その神様に嫁入りとなれば、樟葉とて人間のようには死ねないだろう。何かの冗談かと思ったのだが相手の9本の尻尾はバサバサと忙しなく動き、顔を覆い隠す指の隙間からチラチラと様子を窺うその姿は冗談で結婚を申し出た訳ではなさそうだ。


 樟葉はそっと息を吐くと、



「分かりました、お引き受けします」


「おお!!」


「ただし、母と弟の幸せを優先してください」


「む?」



 首を傾げる妖狐に、樟葉は真剣な眼差しで希う。



「私は母の病気が治り、弟が食うに困らない生活を送れるように日々働いて来ました。2人の生活が豊かなものになるなら、私は貴方の妻となりましょう」


「ううむ、それは承服しかねるのぅ」



 妖狐は少し不満げに、



「母君の病は治してやろう、弟君も食うに困らぬ生活を保証しよう。じゃがお主はどうするのじゃ、自分の幸せは二の次かえ?」


「私は」


「自己を犠牲にするのは素晴らしいことじゃが、お主は儂の妻となる娘じゃ。嫁と、嫁の家族を養えんほど儂は甲斐性なしではないわい」



 樟葉の手を取った妖狐は、



「妻たるお主を世界で1番の幸せ者にするのは、夫である儂の役目じゃ」



 今まで自分の幸せは二の次で、頭の中にあるのは病に臥せた母親と幼い弟のことばかりだった。自分のことなんて考える余裕なんてない。

 その力強さを感じる台詞を口にしてくれる、甲斐性のある殿方はいただろうか。誰も彼も余裕なんてなく、自分や家族だけが生きるだけで精一杯の世の中なのに。


 震える声で、樟葉は問う。



「私も、幸せになっていいんでしょうか……」


「むしろ、お主が1番幸せになるべきじゃろうに」



 妖狐は困ったように笑い、



「のぅ、我が妻よ。名を教えてはくれんかのぅ」


「樟葉と申します――旦那様」



 この世の誰よりも甲斐性のある豊穣神の求婚を受け入れ、樟葉は初めて妖狐に向けて笑いかけるのだった。



 ☆



「――そんな訳で、今日が旦那様のお誕生日ではありますが私と旦那様の結婚記念日でもあるのです」


「八雲のお爺ちゃまって意外と男気があるのネ♪」



 少し恥ずかしそうに身の上話を明かしてくれた樟葉に、南瓜のハリボテで頭を覆い隠した美女――アイゼルネが「素敵だワ♪」と称賛する。


 今日が八雲夕凪やくもゆうなぎの誕生日ということもあって誕生日プレゼントの酒瓶を届けに来たのだが、樟葉に連絡をしたところ「旦那様はご不在ですが、よろしければ我が家にお邪魔しますか?」と提案されたのだ。代表してアイゼルネだけがお邪魔すると、そこは紅葉が綺麗な別世界だって訳である。

 極東の文化を前面的に押し出した平屋の屋敷は非常に広く、庭に植えられた紅葉や桜の木が赤く色づいて四季折々の景色を伝えてくる。樟葉に聞けば八雲夕凪が有する神域結界と呼ばれる場所で、八雲夕凪に仕える妖狐たちが息づいているのだとか。


 客間にてお喋りに興じていたアイゼルネと樟葉は、机に置かれた湯呑みを手に取る。湯呑みには並々と緑茶が注がれており、少し冷めたのか湯気は消えている。



「今だと考えられないくらいに女の子へ言い寄ったりしているけれど、離婚はしないのかしラ♪」


「普段は皆様の前で離縁だ何だと仰っていますが、本気で離縁をしようと思ったことは一度もありませんよ」



 アイゼルネの至極真っ当な疑問を、樟葉は否定する。


 八雲夕凪といえば、ヴァラール魔法学院では余計なことしかやらない狡猾な白い狐である。女性陣に言い寄り、リリアンティアの畑から野菜を盗み、事あるごとに未成年組のショウとハルアから追いかけ回され、挙げ句の果てには「ハクビシン」と呼ばれる始末だ。

 普通の感性を持ち合わせていれば、即座に三行半を突きつけてもおかしくない状況である。海の如く広い心を持った樟葉に感謝すべきなのかもしれない。


 樟葉はくすくすと笑い、



「外では狡猾で阿呆なことばかりしておりますけれど、家では普通に愛妻家ですよ」


「そうかしラ♪」


「そうですよ。皆様が知らないだけです」



 疑うアイゼルネは、客間のふすまの向こうから「樟葉ぁ」という間延びした声を聞いた。どこかで聞き覚えのある声だと思えば、件の八雲夕凪のものである。



「お客人の対応をしておるって藤乃から聞いてのぅ、茶菓子を持ってきたのじゃ」



 スッと襖が音もなく開き、白髪の青年が顔を覗かせる。

 年の瀬は20代程度だろうか。長い白髪を歪な三つ編みに結んで可愛らしいリボンでまとめられた髪型をし、薄紅色の瞳は穏やかな光を湛える。精悍な顔立ちはヴァラール魔法学院の女子生徒や女性職員を魅了し、巫女装束を着込んだ体躯は細くしなやかなものである。


 茶菓子と湯呑みを載せたお盆を持ってきた青年は、



「麓の街で買った練り切りなのじゃ。儂のお勧め」


「お手数をおかけしました。呼んでくだされば取りに伺いましたのに」


「いいんじゃよ、行きがけだしのぅ」



 青年は樟葉にお盆を手渡し、



「儂はこれから供物を捧げてくれた村に顔を出してくるのじゃ。宴席までには戻るのじゃ」


「はい、お気をつけて」



 次いで、青年は薄紅色の瞳をアイゼルネに向ける。それから「おお」と驚いた素振りを見せ、



「お客人はあいぜ殿じゃったか。何のお構いも出来んが、ゆっくりしていっておくれ」


「え、えエ♪」


「ではまた学院で会おうぞ」



 青年は簡単な挨拶を済ませると、ゆったりとした足取りで客間から立ち去った。

 口調そのものは八雲夕凪と似通っているが、どこからどう見ても落ち着きのある好青年である。アイゼルネの頭が混乱してきた。


 アイゼルネの反応を予想していたのか、樟葉はアイゼルネに茶菓子を差し出しながら言う。



「今のは旦那様ですよ」


「八雲のお爺ちゃマ♪」


「ええ、あちらが本性ですよ。普段は穏やかで心優しい自慢の亭主です」



 アイゼルネは絶句してしまった。


 だって普段から見ている八雲夕凪と全然違うのだ。姿形はいくらでも変えられるからいいとして、性格が穏やかで心優しいなど当てはまる訳がない。狡猾さはどこに落としてきたのだろうか。

 あんな性格でヴァラール魔法学院を歩けば、まず間違いなく病気を疑われる。アイゼルネの上司である銀髪碧眼の魔女も、気味悪がって近づかないだろう。



「学院での性格はわざとですよ」


「そうなノ♪」


七魔法王セブンズ・マギアスは個性的な方が多いですから、旦那様は『没個性になるから狡猾さを演じるぐらいでちょうどいいのじゃ』と仰っておりますわ。だから私も、旦那様の意向を汲んで少しばかり演技をしております」



 樟葉は穏やかに笑うと、



「全ては旦那様のご随意のままに、です。私はあの人の妻ですから」



 そう言う彼女は、心の底から幸せであった。

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