8 母の怒りとマルグリット


 エンジニアのジラードもカイロに召喚されていた。当座、カイロには二人だけで向かうという。

 いずれ必要に応じて、副官初め人を呼ぶと、ドゼは言った。

 但し、参謀のドンゼロットやベリアル将軍には、引き続き、上エジプトの統治に尽力してほしいと、彼は続けた。彼らへの信用と、その実力が認められてのことだ。


 俺とイスマイルに、なるべく早くカイロに来られるようにするとドゼは耳打ちした。女の子たちは呼ばないらしい。カイロの治安は万全とは言えず、敵のいなくなった上エジプトに残った方が安全だからだ。


 「君らは男の子だし、家族だからな」

締まりのない顔で彼は笑っていた。


 「ドゼ将軍は、僕らを、自分の息子のように思ってくれているんだ」

 俺と二人になったイスマイルは、目を潤ませた。

「なんて光栄なことだろう」


 俺にとっては、気色悪いだけだ。





 カイロより上エジプトの方が、フランス軍の警護は手薄だ。ムラド・ベイという敵がなくなり、守備が緩んでいる。


 ドゼを殺すなら今だ。

 何より、今実行しなければ次の機会はいつ来るかわからない。


 逃走経路については、全く考えていない。運が良ければ、オアシスのどこかの村に潜り込めるだろう。

 自分の身の安全などどうでもよかった。転生した俺の命は、非常に安い。



 明日は出発という夜、こっそりとドゼの寝所に忍び込んだ。

 少女たちに手伝わせて沐浴を済ませ、ドゼはぐっすりと眠っていた。


 「……」


 月の光に照らされ、痩せたその顔は骸骨のようだった。

 エジプトに来てからドゼは随分痩せたと、副官のサヴァリは言っていた。マムルークを追ってファユーム(カイロ周辺のオアシス)を渡り歩いていた頃、一時的に目が見えなくなったこともあったそうだ。眼病は、砂漠に特有の病だ。恐らく感染症の一種だろう。


 目が見えなくなってもドゼは諦めなかった。ボナパルトへの忠誠を失わなかった。

 ……なぜその忠誠を、国王陛下に捧げないのだ!


 公平に言えば、ドゼは王党派に無関心ではなかった。


 エジプトへ来る前、ライン方面軍の将校だった頃のことだ。

 彼は平地を行こうという戦友の作戦に反論し、麾下の軍を迂回させ、わざわざ山の中を行軍させたことがあった。

 エミグレ亡命貴族軍のコンデ軍との衝突を避けたのだ。


 そうしたことは、ライン方面軍で一緒だったサヴァリや、もう一人の副官のラップが話してくれた。


 それなのになぜ、ボナパルトなのだ?

 俺にはさっぱりわからない。


 革命政府は、軍の力で延命しようとしている。ボナパルトはいわば、革命政府の剣だ。彼は、僅かな部下お気に入りを連れただけで帰国した。決して革命政府に尽くす為ではない、ボナパルト自身が何かを企んでいるのは明らかだ。


 俺達王党派エミグレは、フランスを王の手に取り戻さなければならない。それが、何世代にも亙って王の保護の元、優遇されてきた貴族の使命だ。


 バキルというアビシニアの少年は、ドゼに助けられた。家族と呼ばれ、かわいがられてきた。


 けれど、フェリポーは違う。俺には変わらぬ使命がある。その使命は、どうしても、ドゼとは相容れない。


 背後に隠し持っていたナイフを、大きく振り上げた。頂点まで上げ、振り下ろそうとした時……。


「……マルグ……」


 ………………え?

 はっきりとは聞こえなかったが、女性の名前のようだ。


「……君が残るなら俺も」


 ドゼ将軍の口から、女の名が出てきた衝撃に、危うくナイフを取り落としそうになった。

 身なりに構わない、両頬に傷のあるこの男が、女の名を?

 しかも、その女性が残るなら自分も残ると言っている。

 どこへ?

 決まってる。祖国にだ。

 ドゼは亡命しなかった。兄や弟を含む戦える男性親族は全て、王について亡命したというのに。


 ……そうだったのか。

 って、意外過ぎる。

 いや、本当のところどうなのかなんてわからない。寝言のような断片を聞いただけだし。正真正銘、寝言かもしれない。だがまあ、この男だって、昔からこうじゃなかったのだろう。


 気を取り直し、再びナイフを振りかざした。

 王を裏切った者は、死なねばならない。


 雲に切れ目ができ、月の光がほのかに差し込んできた。閉じた右目から、涙がすうーっと流れ落ちるのが見えた。


「……僕は臆病じゃない。母さん、ごめん。まだオーヴェルニュには帰れない」


 ……ドゼは、母親から、臆病と罵られたのか?


 彼の兄弟親族は、革命の初期に王弟達に従い国を出た。

 それなのに革命軍に入り、国に残った息子……。


 悔しいが、ドゼは臆病などではない。逆だ。身近にいて戦いぶりを見れば、すぐにわかる。


 だが母親は、彼を認めなかった。祖国に残ったその決断を。

 出来損ないの息子に対する母親の怒りが目に見えるようだ。


 革命が起きてから10年になる。もうずいぶん長いこと、彼は故郷に帰っていないのだろう。


 「母」を出されると、俺はもう、いっぱいいっぱいだった。

 王党派としての俺の活動を、誰が見ていてくれただろう。フェリポーとしての俺の死を、誰が悲しんでくれたのか。


 共に戦った仲間は悼んでくれたと思う。でも、それだけでは足りないと、わがままな心が嘆く。もっと深く、身も蓋もない獣のような咆哮で、フェリポーの死を泣いて欲しい。


 俺の母は産後の肥立ちが悪く、俺を産んだ3ヶ月後に亡くなった。幼い頃に父も亡くし、俺はおじに育てられた。


 母との確執。

 孤独な息子。


 ……だから彼は、異国の少年少女を家族と?


 振り上げた両手が、だらんと下りた。

 肩を落とし、俺はドゼの寝所を後にした。




 翌日。

 ナイルを下る船に乗り、ドゼはカイロヘと向かった。


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