1-6
「すみません、私のミスで」
『のっぺらぼうの怪人』の事件から2時間後。
のっぺらぼうに助けられたホームレスや、そのホームレスに暴行を加え、のっぺらぼうの怪人に制裁を加えられた加害者とも、被害者とも言える男性のへ聴取を遠藤は終えていた。その後、治療を受けた荒谷を迎えに行った遠藤は、普段の荒谷からは聞けないような謝罪を、警察病院の待合室ですぐさま受けた。
「誰にでも、ミスはある。助けてくれようとしたんだろ。ありがとな」
遠藤はしょげてうつ向いている荒谷の肩を叩く。旧体制の警察なら、先輩刑事の遠藤はそのミスを厳しく指導するはずだろうが、民営化以後、パワハラに関する世間の目は厳しくなってた。人命が損なわれていない以上、遠藤も荒谷を責めることは本意ではなかった。今この瞬間は、遠藤も現在の市警の現状をありがたく思った。
荒谷の指の骨折は全治一ヶ月との診断が下された。幸い、後遺症が残ることはないとの医師の見立てだったが、荒谷はまるで納得しきれていなかった。
「自分、悔しいっす。あんなきしょいヤツが街にのさばってるの。普段の先輩のことはよく分かんない時ありますけど、今ならちょっと先輩の気持ちわかるかもしれないっす」
少なくとも、普段の遠藤はここまでの義憤に駆られてはいないが、せっかく芽生えた後輩の熱意に水を差すつもりもなかった。
しかし、相棒が冷静さを失ったままでは、その感情が尾を引き、捜査に支障をきたしかねない。なので遠藤は同意する代わりに、後輩をいつもの調子に戻してやることにした。
「ところであいつの名前どうするか」
「名前っすか?」
「のっぺらぼうの怪人、だと長いだろ? せっかくだ、折られた骨の分、小馬鹿にした名前でもお前が付けろ。捜査の時の呼称名にしてやる」
「パイセン、人のことを何だと思ってるんすか」
荒谷は目を細め、遠藤に抗議するが、すぐ普段のいたずら心を取り戻し、アイデアを口から発した。
「殴るやつの顔になってたんすよね。じゃあ、フェイス……フェイスマン! どうすか?! いい感じにダサくないっすか?!」
先ほどまでの陰鬱とした表情も吹き飛び、荒谷は星空のように目を輝かせながら、指が折れていない方の手でサムズアップする。
「マジでダサいな。下手なご当地ヒーローよりダセえじゃねぇか」
遠藤も、後輩の明るい顔につられて笑う。
この街は地獄だ。
警察官は仕事をせず、治安は悪化の一途を辿り、犯罪者に私刑を加える怪人まで現れた。どん詰まりの最底辺ともいっていい。
だが自分たちのいるところが最底辺なら、あとはそこから這い上がるだけなのだ。
病院の窓から見える月は、今日という日の終わりを示す。決意を新たにした後輩を前にした遠藤は、明日は今日よりマシな一日になるだろうと、根拠はないが、確かな気持ちを胸に抱いた。
◆
礼人は息を切らしながら自身のアジトに――おんぼろキャンピングカーに戻った。警察に捕捉されたのは今回が初めてで、そのスリルの波が過ぎた影響か、礼人の足はまともに立っていられないほど震えていた。ソファに倒れこむように腰を下ろすと、震えた手でなんとかヘルメットを脱ぐ。ヘルメットの表面に自分の顔が、歪んで醜く映る。
「ヒーローにでもなりたかったか?」
自身と対峙した警察官――手帳では遠藤という名であった刑事の言葉が、頭の中で反響する。
違う、自分はそんな高尚なものではない。罪人中の罪人、どうしようもない存在だ。ヘルメットに写った歪んだ顔の怪物。
礼人はヘルメットを床に放り出し、震える膝を両手で抱えた。
◆
「お兄ちゃん、お帰りなさい!」
パジャマ姿の莉桜が、11時を回ってから帰宅した礼人を笑顔で迎える。風呂上りなのか、バスタオルが首にかかっており、まだ髪の毛が濡れている。
「……ただいま」
礼人は努めて平静を装ってそれに答えたが、普段通りに見えているかどうか、全く自信がなかった。
「飲み会楽しかったですか?」
莉桜は幸いそれに気づいていないようで、自分の知らない大人の世界の様子を伺う。
「先輩は飲んでたけど、兄ちゃんは飲まなかったんだ。今日原付で出勤だったし」
アルコールの匂いがしないことと、原付で帰宅したことへの嘘だが、バレないか密かに冷や汗を流す。
「そういえばそうでしたね! 居酒屋さんのおつまみで足りましたか?」
莉桜は兄を嘘を疑う様子は見せずに、冷蔵庫の前に向かい中を伺う。
「あっ、昨日の肉じゃがの残りがあります! 温めますか?」
礼人は急いで冷蔵庫と莉桜の間に入る。嘘を重ねた上、こんな手間までかけさせるわけにはいかない。
「ありがとう。大丈夫、自分でやる。髪乾かしておいで」
「はーい!」
莉桜は兄の言いつけに従い、洗面台へ去っていく。肉じゃがの入った鍋を取り出し、莉桜が去って静かになったキッチンで一人、コンロで余りもの肉じゃがを温め始める。
静かに熱を帯びていく肉じゃがを眺めながら、礼人はある人の言葉を思い出していた。
『クソにはクソなりの役立ち方がある』
死んだ両親の声の記憶も朧げになってきたのに、今もはっきりと思い出せるある人の言葉。
若いのか、老いているのか分からない女性の声。礼人鍛え、かつてはあのキャンピングカーに住んでいたはずの女性の声。
この街は天国だ。
たった一人だが優しい家族がいる。自分の面倒を見てくれ、受け入れてくれる人々もいる。
それなのに、自分というクソみたいな存在がいるだけで、その天国へ影が差す。
でも、それならば、せめてこの自分の力はこの杜の都に、天国のような街に還元すべきだ。
それがあの日、命を奪ったことへの、蛮徒 礼人という歪んだ存在への贖罪になるのであれば。
アパートの窓のカーテンの隙間から月が見えた。今日という日の終わりを示す月だ。礼人は明日も自分に枷をかけて歩むことを、胸の内に決意する。
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