その恋は珈琲のように苦く、優しさはミルクのように甘く

森陰五十鈴

前篇

 愛しい人から半年ぶりに届いた封筒を、洋燈ランプの下でなく月明かりのもとで開こうと思ったのは、胸のうちで膨れ上がった不安にとても耐えきることができなかったからだ。中に納められた手紙の内容をとても直視することができなくて、せめて文字が見えるか見えないか分からないくらいの満月の光の下なら開けるだろうと思ってのことだった。

 すっかり気温が下がった秋の夜半。白い絹のネグリジェ姿に乾ききらない黒髪をそのまま下ろして、ショールも羽織らないまま、硝子張りの扉からひっそりと外に出る。煉瓦造り、スレート葺のジャコビアン様式の邸の裏手に広がった、母自慢の優美な薔薇庭園を一望するテラス。そこに設置されたテーブルの傍に寄ると、椅子の一つに腰掛けた。使用人によって丁寧に磨かれ、外に置かれても砂埃一つない白い円卓に白い封筒を置くと、瞳を閉じて、深く深く呼吸を繰り返した。薔薇よりも強く香る金木犀の匂いが胸の中に満たされる。少し気分が落ち着いて、ようやく封筒を開く決心がついた。慶事の報せを象徴する切手の貼られた封筒を裏返し、たおやかな指先で糊を丁寧に剥がしていく。

 中身を抜き出した瞬間、みおの大きな瞳に暗い翳が差した。


(やっぱり)


 日中に封筒を見た瞬間から、手紙の内容がどういうものか察しはついていた。それでも認められなくて――認めたくなくて、この時間になるまでずっと視線を逸し続けていた。


 封入されていたのは、上質な厚紙を二つに折ったカードだった。砕かれた金箔を一緒に漉いたのか、きらきらと小さく光る紙面をそっと開くと、活版印刷の素っ気ない文字で催し物の内容と日時と場所が記載されている。

 震える指先から力が抜ける。小さな音を立てて、二枚の紙がテーブルの上に落ちた。カードに挟まれた薄紙の、参加可否を尋ねる青い文字が、月明かりの下で嫌に目に付いた。


 届いたそれは、招待状だった。

 二年間、互いに想いを交わし合った愛しの彼と、社交界の華と知られたご令嬢の、結婚式の。




 夏の日差しを遮る白い日傘の下、我が家の薔薇が花盛るの庭園で、物語の騎士のように跪いた幼馴染に赤い薔薇を一本差し出されたのは、いったいいつの事だったか。


 もともと父親同士が仕事の関係で付き合いがあり、互いの家を訪問していくのに連れられて知り合った二人だった。幼い頃からの交流で気心の知れた仲。他の異性と違う感情を抱いてはいたものの、このときまではまだ、澪は二人の将来にまでは思い至っていなかった。

 けれど、頬を赤く染めながらも必死に冷静さを取り繕う彼の熱い眼差しに、情熱的な愛の言葉に、澪の心はぐらついて、あっという間に恋心へと傾いて。

 気がつけばもう、柔らかな黒髪から垣間見える優しい褐色の瞳に囚われていた。

 それからの彼との日々は、まるで小さな宝石のようにキラキラと輝いていて――澪は、それこそ宝物のように、大事に大事にしまっていた。

 それなのに。


 この豪華でありながらも素っ気ない紙切れ一つに、澪の大切な想い出たちは呆気なく砕かれてしまった。

 まるで、宝石と思っていた一つ一つが、実は硝子玉でしたとでも言わんばかりに、粉々に。




 招待状を取り落とした繊手がだらりと垂れる。花のモチーフが透かしで彫られた白塗りの背もたれが、力の抜けた澪の背を支えた。見上げた空では満月が煌々と光っていて、澪がどんな顔で絶望しているか覗き込んでいる。

 不思議と涙は出なかった。ただ、心だけが、冷たく暗い水底に沈んでいく。


(いっそ、このまま)


 静かな水の中で眠れたら。外の世界の光も音も届かないところに居られたのなら、どれほど良いだろう。明るい太陽の光なんて見たくなかったし、この庭を咲き誇る秋薔薇を見るのも苦痛に思えた。手に入れられなかった希望を目の前で見せつけられるくらいなら、このまま暗闇に留まっているほうがずっといい――。


「失礼します、お嬢様」


 絶望に己を沈めんとしていた澪を、不意に低くしゃがれた男の声が引っ張り上げた。振り返れば、テラスにほど近い硝子張りの扉の傍に執事の鷹道が立っている。人も寝静まる頃なのに、皺一つない燕尾服を纏い、白いものが混じった髪をオールバックで整え、金色の縁の丸眼鏡を光らせて、隙のない姿を見せている。

 鷹道は、突然の執事の出現に面食らった澪に、いつものような柔和な笑みを浮かべてみせた。


「お月見のお供に、チーズケーキは如何でしょう?」


 初老の執事が小さな音を立てて押してきた小さなカート。清潔なクロスが掛かった上にポットやカップや小皿など、お茶をするのに必要な食器一式が載せられていた。その中に鷹道のいうケーキもあって、まさに自分が主役だとばかりに存在感を見せつけている。


「チーズケーキ……?」

「何を思ったのか、キッチンが急に菓子づくりに勤しみだしまして。上手くできたようだから、宜しければお嬢様の感想をいただきたい、と」


 テーブルに放置された手紙を素早く片付け、代わりに大きな丸皿を置く。金縁の陶磁器の大皿の上に載った、天上の月を輪切りにしたようなまあるい乳白色のレアチーズケーキ。白手袋をはめた手が銀色のナイフを差し込んだ。はじめは一文字。次は十字に。さらに十字にナイフを入れる。八切りになった一つを瑠璃色の陶器皿に乗せると、二又の細いフォークを添えて澪の前に差し出した。

 皺の深い顔に掛けられた眼鏡の奥が柔らかく光る。


「どうぞ、お好きなだけお召し上がりください」

「好きなだけって……」


 澪はケーキを見つめて途方に暮れた。眦を下げ、無意識に腹周りを探る。彼女もまた令嬢の一人。西洋のドレスが映えるよう、体型には気を遣ってきた。食事制限もその一つ。たまの贅沢を味わうのだって、一日の食事の量と運動量とを勘定した上のことである。

 いくら悲しみに打ちひしがれていたって、長年身体に沁みついた習慣はそうそう変えられない。そんな彼女の葛藤を察した執事は、朗らかに笑った。


「一晩程度の過食であれば、大した影響はございませんよ」


 そうだろうか、と眉を顰めつつも、その白い誘惑には抗えなかった。誰かに甘やかして欲しい気持ちがあった。だから少しくらい――そう思ってしまうと、もう我慢なんてできなかった。


「お湯の用意もできております。なんでもお好きなお茶を淹れて差し上げますよ」

「それじゃあ……」


 暫し逡巡する。好きな銘柄がいくつか思い浮かぶが、カートの上に片付けられた紙片が澪の思考をあるところで止めた。

 それは、かの令嬢が好んでいると噂されているもの。


「……珈琲コーヒーをお願いできる?」

「珈琲……でございますか?」


 鷹道は、太く白い眉の根を寄せた。

 甘いものが好きで、苦いものと辛いものを好まない澪は、珈琲を嗜まない。甘味のお伴はいつも紅茶。緑茶は飲めるが、抹茶となると薄茶は義務で濃茶は苦行。そんな澪が珈琲を所望することなど、一度たりともなかったのだが。


「飲みたい気分なの。……お願い」


 突き放すような有無を言わさぬ口調に、鷹道はなにを感じたのか。


「承りました。用意して参りますので、暫しお待ちください」


 一礼して、屋敷の中へと消えていった。

 飲み物も出ていないのに菓子に手を付けるのは躊躇われて、ぼんやりと大皿の白いチーズケーキを見つめながら、執事が戻ってくるのを待つ。さほど待たずに鷹道は戻ってきた。

 漏斗に入った黒い粉末に、細口のポットからお湯が注がれる。漏斗の下に置かれた硝子ポットが褐色の液体を受けると同時に漂ってきた香りは、澪には慣れ親しんだものだった。澪は飲まないが、父が朝に珈琲を飲む。あまりに美味そうに飲むので、まだ十か十一だった頃に一口飲ませてもらったが、あまりに苦くて涙したほどだった。そのときからずっと、珈琲は飲まないようにしていたのだが。


 恋人と結婚する女性は珈琲を飲む人なのだ、と思ったら、飲んでみたくなった。興味――いや、きっと幼い対抗心。同じ年頃の彼女が飲めるのだから、自分だってきっと飲めるはずなのだ、と。


 硝子ポットに半分ほど珈琲が満たされると、鷹道は伏せてあった白いチューリップ型のカップに注いだ。ソーサーと一緒に澪の前に差し出される。悪く言えば泥水のように真っ黒な液体は、やはり人間が飲むものとは思えなくて、おそるおそるカップの取っ手をつまんで、慎重に縁に口付けた。


(……苦い)


 液体が舌先に触れたくらいの量で、カップから口を離してしまった。顔を顰めて黒い水面を睨みつけた。今はもう泣くほどではないけれど、やはり人間が飲むものだとは思えないほどの苦みがある。これならまだ、お濃茶のほうがマシなのではないか。


「お味は如何ですか?」

「……まだ、慣れないわ」


 自分から頼んだ手前、やはり飲めないとは言えなくて、精一杯の強がりを言う。まだ、だなんて、いつかは飲めると意地を張る子どものような強がりだ。

 然様ですか、と鷹道は言及しなかった。


 甘い物を食べれば、少しは飲めるようになるだろうか。そんなことを思って、ようやくチーズケーキに手を伸ばす。白いチーズは抵抗することなくフォークを受け入れた。手ごたえなどほとんど感じられないまま下のほうまで行って、はじめてクッキー生地のところで硬い感触を得る。でもそれも、少し力を入れればなんなく崩れて、ケーキの先端を掬いあげることができた。

 歯で噛みしめれば、さく、と音を立ててたちまち崩れるクッキー生地。舌先で押し潰され、口の中で溶けていくクリームチーズは、甘みの中にレモンの爽やかな酸味が隠されていて、嚥下したあとの口内に不快な後味を残すことなく、更に食欲を掻き立てる。

 二口、三口と口にして、優しい甘さに酔いしれると、ふと目頭が熱くなった。思考などとうに停止し、愛しの彼のことすら頭から追いやっているはずなのに、何故だか胸が苦しくなる。

 ぼろぼろと熱い涙を零しながら、一心不乱にチーズケーキを食べ続ける。瑠璃色の皿が空っぽになると、すぐさま二つ目を催促した。手早く載せられた八分の一を、また黙々と食べ続ける。ときに喉に詰まりそうになったクッキー生地を珈琲で洗い流しながら。慣れない苦みで満ちた口内を再びクリームチーズの甘みで満たしながら。


 そうしてテーブルの上の満月を四分の一だけ欠けさせて、舌も腹も満たされた頃には、昂ぶっていた気持ちも少し落ち着いた。フォークを置いて、溜息とともに手にしたカップ。まだ半分も残っている夜より黒い液体に、天上の満月が映り込む。

 背伸びしてみたところでやっぱり苦手なそれを、甘味なしで飲み干すのには、躊躇いがあった。そんな自分に自嘲して、それからかの令嬢を思い浮かべた。


 もし、これが飲めるほど大人になれていたのなら。

 私は彼の隣に居られたのだろうか。

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