第2話 目が覚めたら、妻が豹変した。(ローデリヒ)

 何やら奇っ怪な事になった、とローデリヒ・アロイス・キルシュライトは頭を抱えた。


 月光のような金の髪に穏やかな海の色の瞳。鼻筋は通っていて、白い肌はシミ一つない。まるでおとぎ話の王子様を体現したかのような容姿は、国内外問わず持て囃される。


 まだ十九歳という若い彼には、重大な悩み事があった。


 正妻であるアリサ・セシリア・キルシュライト。

 結婚三年目にして、一つ年下の彼女がよく分からない。


 結婚当初から夫婦仲は冷え切っていた。

 それはもう永久凍土並に。


 一応政略結婚だから、恋愛結婚と比べて熱々ではないだろうなとはローデリヒ自身も思ってはいたが、ここまで酷いとは予測していなかった。


 当時のローデリヒは十七歳。


 元々恋愛結婚した両親がとても冷え切っていたのを見て、結婚に理想はあまり持っていない冷めた少年だった。

 だからこそ、恋愛結婚より国に有利になる政略結婚を選択した。


 でもほんと少しだけ、ほんのひと握りだけ、ローデリヒは期待していたのである。


 まだ十七歳。女子に興味がとてもあるお年頃。


 堅物として生きてきたローデリヒは、それまで浮いた話は一つもなく、自分自身の身辺も清廉潔白にしてきた。

 愛人の影なんて全くない。真面目が取り柄の人間だった。


 それだけでなく、アリサの見た目はローデリヒの好みど真ん中なのである。


 ブロンドの髪は艶やかで波打っている。やや猫目のピンク色の瞳は大きめ。化粧をしていない時でも薄ピンクの唇はぷっくりしていて可愛らしい。


 数ある政略結婚相手から彼女を選んだのも、どんな性格の人間か全く分からないのだから、せめて好ましい見た目の女性にしようという気持ちからだった。


 それが失敗だったのではないか、と思ったのは結婚してからだったが。


 アリサ・セシリア・キルシュライトは嫁いで来る前は、隣国のマンテュサーリ公爵家の令嬢だった。


 一時期、隣国の王太子の婚約者に内定しているとの噂があったが、結局隣国の王太子の婚約者だと発表されたのは別の公爵家の令嬢。


 それならばアリサに求婚したとしても、なんのしがらみもあるまいーーそう思っていたのだが、これがありまくりだった。


 どうやら、アリサが隣国の王太子の婚約者に内定していた事は本当だったらしい。発表がまだだっただけで、発表予定時期や結婚予定時期までもが綿密に計画されていた。


 ここまで話を進めておいて、何故王太子の婚約者でなくなったのか。


 それはとある噂が隣国の社交界を賑わせたからであった。


 曰く、アリサ・セシリア・マンテュサーリは誰にでも足を開くふしだらな女である。

 曰く、アリサ・セシリア・マンテュサーリは目麗しい従僕を侍らせているふしだらな女である。

 曰く、アリサ・セシリア・マンテュサーリは貴族、平民問わずに常に男を漁ってるふしだらな女である。


 どれだけアリサをふしだらな女にしたいかが伝わってくるような噂であるが、これがかなり話が大きくなってしまっていたのである。


 それで王太子との婚約は破談。


 王族との婚約破棄が水面下で囁かれた事もあり、アリサ・セシリア・マンテュサーリのふしだらな女説が現実味を帯びてしまった。


 つまり、アリサ・セシリア・マンテュサーリは隣国の社交界での〝敗北者〟だったのである。


 だがローデリヒにとっては、隣国の社交界での敗北者だろうが、ふしだらな女だろうがどうでもよかった。


 所詮噂話。だから、本当でもよかった。


 隣国の社交界での話など、こちらの社交界では必要ない。それに最低限の義務的な社交パーティー以外なら、出なくてもいいとすら思っていた。


 結婚前にどんな男と関係を持っていようが、結婚と同時に全て切ってくれれば良いのだ。

 やはり過去については少し気になるが、許容出来る。


 だが、嫁いで来る時にアリサに強く拒絶された。


 自分的には紳士的に振舞った筈である。ローデリヒ自身の落ち度はなかったと、今でも思っている。


 出会った時だけではない。


 ローデリヒが触れると嫌がる。本気で拒絶する。


 流石に夫婦の営みは避けては通れないと分かっていたらしく、初夜は無事に済ませたが、ローデリヒはすっかり臆病になってしまった。


 自らを拒絶する人間に対して、進んで接触するのは気が重い。そして、更に妻である彼女に嫌われるのは避けたかった。


 しかし、1ヶ月ぶりに妻の元に行けば、目の前で階段から転落された。流石に肝を冷やした。


 それだけではない。

 妊娠していた事も驚きだったが、頭を打ったせいか妻がーー豹変していた。


 予定が押しているので、とりあえず無事が確認……いや、あれは無事と呼べるのか?受け答えがしっかりし過ぎているのも疑問だ。


 全く分からないが、身体的には大丈夫そうだったので部屋から逃げるようにして出てきてしまった。


 情けない限りだが、嫌われているのでアリサ的にも良いだろう。


「ローデリヒ殿下。奥方様のご容態はいかがでしたか?」


 部屋の外で待機していた護衛騎士であるイーヴォに「安定した」と簡単に答え、脱ぎ渡していたジュストコールを受け取る。 深い紺色のそれには、権力者の象徴とも言っていいほどの金や銀糸の精緻な刺繍がされていた。


 歩きながら着ていると、ひょっこりと侍従がローデリヒの顔色を伺うようにして見つめてくる。


 まだ十代半ばの少女のような見た目の侍従に、ローデリヒは目で「どうした」と問うた。


「ローデリヒ様。もう奥方様に関わるのはおやめになっては?跡継ぎのご子息はもうおられるのですし」

「……そういう訳にはいかない。第一、あれは妊娠している」


 侍従は栗色の瞳を大きく見開いて、固まった。元々大きな目が零れ落ちそうな位だった。


「それは……、おめでとうございます。……ですが、本当にローデリヒ様の血を引いておられるのでしょうか?」

「屋敷は女性騎士で厳重に固めている。侍女も多い。唯一接する事が出来るのは老人のジギスムントのみ。どう考えても私の子だろう?」

「……それは、そうですが……!」


「辞めておけ、ヴァーレリー。不敬だぞ」


 尚も言い募ろうとする侍従を窘めたのは、イーヴォだった。ヴァーレリーと呼ばれた侍従は不服そうにしていたが、渋々黙る。


「……夫婦仲が上手くいっていないからそう言われても仕方ないな」


 はあ、とローデリヒは深々と溜め息をついた。彼らに身近な人には、夫婦仲が冷え切っているのは既に知られている。


 アリサがあまり社交界に出ていないので、周囲以外に知られていない事が幸いだった。だが、それも時間の問題である事は間違いないだろう。


 アリサがいる部屋から数部屋隣。イーヴォとヴァーレリーを引き連れたまま、ローデリヒは扉をノックした。


 出てきたのは二十歳半ばの女性。簡素なドレスに身をつつんだ彼女は、ローデリヒの姿を見るなり歓迎するように微笑む。


 そして彼女が案内した室内には、ふくふくと順調に成長してきている赤ん坊がゆりかごの中で穏やかに眠っていた。

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