サボテンは微笑まない

たぴ岡

第1話 久しぶり

 何かが起きるときは、決まって雨だった。

 その日も例にもれず雨が降っていて、せっかく大学一年の後半が始まろうというのに、真宮まみやいずみはどんよりとした気分で講義室に入った。

 何となく、後期が始まることを楽しみに思っていたのは、たぶん、永遠にも思えるほど長かった夏休み中いずみが誰とも交流せず、ひとり部屋に籠もっていたからだろう。それに、前期では一切会うことのなかった、同じ高校から来ている人間を見つける可能性を、いずみはまだ信じているのだ。

 講義が始まるまであと数分ある。ある程度空席も目立つのに、都会のど真ん中に落とされてしまったような騒々しい人の話し声がいずみの鼓膜を揺らす。それが何とも心地よかった。

 辺りを見回し、入口からそう遠くなく、スクリーンも見やすい、それでいてあまり目立たない席を探す。大きな講義室にいろんな色の頭が並んでいる。茶色や金色、赤から緑まで、花畑にいるような錯覚に陥るほど色とりどりだった。校則による制限がなくなる、ということはそれほど大きなことなのだろう。ほとんど黒が見当たらない。

 いずみは自身の髪をさらりと撫でて、ため息を吐く。何色にも染めず、ただ黒く短い。どこを見てもこんな大学生を見つけることはできない。自分の居場所はここにはないのかもしれない。そう思ったとき、ふと、ひとりの背中に目がとまった。

 長い茶髪をハーフアップにして、大きな黒いリボンで結んでいる。すらっと細く長く伸びた指、何ものにも汚されていない真っ白な美しい素肌。華奢きゃしゃな身体に大きすぎるようなリュックを背負った彼女。あのリュックは以前も見たことがある。その人はおろした荷物を隣の席に置くと、可憐な動きで着席した。

 ――あぁ、月村つきむら彩葉いろはだ。

 いずみの全てが停止した。動くことはおろか、何を考えることもできなくなった。彼女が視界に入ったその瞬間から。

 彩葉といずみは、高校三年のときに出会った。同じクラスになったのだ。いつも教室の端で本を読んでいるいずみとは反対で、彩葉はいつも教室の真ん中で友人たちと遊んでいる印象だった。彼女と自分に共通項などないし、自分とは住む世界が違う人だ。きっと関わることもなければ、目を合わせることすらないだろう。会話をするまでいずみはそう思っていた。

 不意に、振り返った彩葉と目が合う。うっすらと化粧の施された顔が、いずみを捉える。その大きくて澄んだ瞳は、何者をも吸い込んでしまいそうに魅力的だった。

 彩葉はぱあっと顔を明るくし、笑顔で手を振った。いずみのことを認識したらしい。それに、覚えてもいたらしい。

「いずみちゃん、だよね」

「久しぶり、彩葉」

 愛らしい笑顔はいつまでも変わらない。大人っぽい化粧をしている。髪を茶色に染めている。イヤリングやピンキーリングなどのアクセサリーを身につけている。あの頃とは違うところばかりなのに、いずみには何ひとつ変わっていないように思えてならない。

「いずみちゃんは変わらないね、ずっとかわいい」

「……いや、彩葉こそ。ちっとも変わってない」

「何それ、ちょっとディスってる?」

 ふざけあうのが懐かしい。あの頃に戻ったみたいだ。いずみは眉を下げて笑った。それにつられるようにして彩葉は幼い子どものような笑みを浮かべた。これも変わらない。

「ね、いずみちゃん、隣座んない? 前でも良いけど」

「じゃあお言葉に甘えて」

 いずみはひとつ後ろの席に腰を下ろすと、隣の席に荷物を置いた。その中から講義で使う道具を出そうとして、彩葉の視線に気付く。

「いずみちゃん、ホント変わらないね」

「それ、さっきも聞いたよ」

「そういうとこも変わらない。いずみちゃんのいいところだよね」

 茶化すように言ってくる彩葉を見て、いずみは戸惑う。いや、だとか、何それ、だとか、言葉は頭に浮かんでくるのに、口から出ていかない。彩葉に対してはいつもそうだった。何をするにも一度ストップがかかる。

「――ところでさ」

 そんないずみを知ってか知らずか、彩葉はのんきに言葉を並べる。

「同じ大学だって知らなかったね。前期も会わなかったし」

「高三の受験期に大学の話しづらかったってのもあるかもね」

「確かに! それで落ちたりしたら辛いもんね」

 他愛ない雑談をしていると教授が入ってきた。時計を見ると講義開始の時間まで残り一分もなかった。

「しかも同じ講義取ってるなんて、奇跡だね」

「来週から来るの楽しみになるかも」

 教授は機械操作に慣れていないのか、スクリーンとパソコンを繋げるのに手間取っているようだ。他の講義はもう始まっているだろうに、この大講義室はまだ話し声で満ちている。

「ね、いずみちゃん――」

 彩葉は上目遣いで少しだけ口を開けて笑む。こうしていずみを呼ぶときはいつも、何かを企んでいるときだった。

「この講義終わったらさ、ちょっと遊ばない?」

 大学に向かうときは髪を少し濡らす程度だった雨が、窓を叩く音が小さく響くくらいに強くなりつつある。いずみは予感した。何かが始まる――。

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