第75話 水魚の交わり Ⅲ

 「皆の者、敵がいかなる挑発をしてこようと決して動くな」


 夏候惇はそう配下に伝えて、曹操軍は微動だにしなかった。


 (兵数において我が方が圧倒的に有利であるから、劉備の奴らは間違いなく何かを仕掛けてくる。それにまんまと乗るようなわしではないぞ・・・)


 猛将として名の知れた夏候惇だが、今回は自身で山と言ったように動かない。


 このままでは孔明の策が失敗に終わる、そんな時であった・・・



 「弱ったなぁ、道に迷っちゃった・・・」


 俺は襄陽からの帰り道に曲がる所を間違えてしまい、そのまま草むらに迷い込んでしまった。


 「おい!あそこに誰かいるぞ!」


 「あの身なりからして高い身分に違いない!」


 「あいつ、甲冑もつけてないぞ!やっちまえ!」


 俺が草むらでうろうろしていると、槍を持った屈強な兵士が襲い掛かってきた。

その旗印からして、夏候惇率いる曹操軍である。


 「ひぃぃ・・・!」


 逃げるしか方法のない俺はひたすら反対側へと走った。

だが、曹操軍は草をかき分けながら追いかけてくる。


 「者ども!それ以上は追うな!」


 一部の兵士と突出に気づいた夏候惇は止めようとしたが、目の前に大将軍の首が転がっているようなものなので、走り出した兵士たちは足を止めなかった。


 「追いついたぞ!ご覚悟っ」


 「う・・・・・・!」


 俺は死を覚悟し、目をつむった。

しかし、その槍が俺を突き刺すことはなく、むしろ敵兵の叫び声が聞こえるのみである。


 (ん?助かった・・・?)


 俺が目を開けると、目の前の敵兵は首元に矢が刺さり、絶命していた。


 「おのれ劉備玄徳!俺らの首狩りを邪魔しやがって!」


 周りの敵兵がそう叫ぶ。

そう、これは囮部隊である劉備隊が突出していた曹操軍に弓矢を放ったものであった。


 獲物を前に邪魔をされた曹操軍はいきり立ち、劉備軍へと突進していく。

これには夏候惇の命令を守っていた兵士も、


 (まずい!あいつらに先を越される!)


 と焦り、遂には山体崩壊するかのように曹操軍が前進を始めた。


 すると、劉備らは適当に交戦しながら後退していき、盆地の中央部にまでおびき寄せる。


 さぁ、ここまでくれば後は計画通り。

両斜面から関羽、張飛の部隊が松明を片手に出撃し、それを草むらに放り込む。


 「ややっ!火だっ」


 曹操軍が気づいたころには既に時遅し。

松明の火はたちまち草むらを火の海にした。


 「退けー!」


 仕方なく後追いで戦場まで来ていた夏候惇も命からがら火の海となったこの盆地を脱出。


 だが、多くの曹操軍は焼け死ぬか火の海から出たところを待ち伏せしていた関羽らの兵によって討たれた。


 ここに劉備軍は歴史に残る勝利を収めたのである。


 (うわぁ、やっぱり孔明殿の策は凄いなぁ)


 命拾いをした俺は予め草むらから避難しており、山の上からその光景を眺めていた。


 そして、戦が終わったのを確認してから俺は劉備軍の本営に戻ったのである。


 「おお!風魯大将軍。ご無事で何よりです」


 本営に戻ると劉備が自ら迎えてくれた。


 「ご心配をおかけしました」


 俺は頭を下げたが、劉備としては俺が戦場に現れたお陰で勝ったようなものなので、


 「いえいえ、こちらこそ感謝しております」


 と劉備の方も頭を下げてきたのである。


 その時、俺はなんで感謝されたのか理解できていなかったが、特に気にすることはなかった。


 だが、そのあと孔明にも感謝されたので、さすがの俺も理解する。


 (ああ、もしかして俺によって膠着状態が動いたのかな?)


 まぁ、それなら死にかけたのも少しは報われるというものだ。結果論だけど。


 なお、曹操の大軍を撃退したこの一戦は、その盆地の地名から博望坡の戦いと呼ばれる。

 ちなみに最後の坡とは坂という意味であり、ここから紆余曲折ありながらも、劉備玄徳はその名を博し、天下を望んで覇業への坂道を登っていくことになるのであった―

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る