第36話 わたしが選ぶ道

「朱実ちゃん?」


 朱実の機嫌を伺うように、舞衣子がそう問いかけた。遠い記憶の中で母からそう呼ばれていたような気がする。あの頃の自分は小さすぎてはっきりと覚えていない。けれど、きっとそう呼ばれていたに違いない。

 肩に置かれた手が、気遣うように頬に触れた。


「あなたからは沈丁花の香りがするのね。小さいときは朱実も金木犀がいいって、言ってたのを思い出したわ。でも、沈丁花の香りが朱実ちゃんに似合ってる」

「お母さん……」

「ふふ。なあに?」

「おか、お母さんっ! お母さん!」


 衝動的に母に抱きついた。驚いたのか、舞衣子は朱実を受け止めたものの、手は宙に上げたままだ。どうしたらよいか迷いがうかがえた。

 朱実は母に抱きしめられたくて抱きついたわけではない。忘れ去った母の温もりをただ感じたかっただけなのだ。だから、母からの抱擁はなくていい。困らせたくない朱実はそっと体を起こす。

 すると、


「本当に大きくなった。すっかり大人の女性ね」


 舞衣子はそう言いながら、離れようとした朱実を抱きしめた。もう自分の腕では隠せないほど大きくなった娘とその時の流れに胸が押しつぶされそうになる。

 病に倒れた時、蒼然の治癒の申し出を断った。神の力をそんなことで煩わせたくないという思いと、この子ならば大丈夫だという勝手な自信があったからだ。


「多田羅の御神木の下で、神様の話をしたのを思い出したわ。多田羅には四季の神さまがいて、順番に多田羅の町を守ってくれていた。その神さまたちに感謝をしましょうって、お話。朱実ちゃんはそのお話を守ってくれたのね。ちゃんと分かるわ。だって、朱実ちゃんからは夏の神さまや冬の神さまの香りもするもの」

「でも、わたし多田羅の衰退を止められなかった」

「いいえ、それはあなたのせいではないわ。時代の流れは誰にも止められない。わたしが生きていたとしても、同じ問題に悩んだと思うの。それよりも、あなたはバラバラになった四季の神さまを目覚めさせてくれた。それはとても凄いことなのよ」

「だけど、わたしは泰然さまと結婚をしてしまいました。お母さんが守ろうとしたことを台無しにしたの」


 朱実がそう言うと、舞衣子は小さく首を横に振った。そして、蒼然と泰然の顔を見ると再び朱実の身体を抱き寄せる。背中をトントンと優しく叩きながらこう言った。


「朱実にしかできない導き方があると思うの。あなたは皆から好かれているわ。わたしが成し遂げられなかったことを、朱実に託します。責任を押し付けるみたいで申し訳ないと思います。でも、あなたならできる。あなたの選んだ道を、わたしたちは支持します」

「わたしの選んだ、道……」

「そう。あなたはあなたの人生を生きていいの。過去のわたしに囚われないで。もうあなたは立派な多田羅の狐よ」


 朱実が顔を上げると、舞衣子は抱擁を解いた。そして、今まででいちばんの穏やかな笑みを見せる。


「わたしは朱実の狐の舞が見たい」

「お母さんのように、うまくは舞えない」

「そんなことない。自信をもって。あなたを支えてくれる大切な人たちのことを想ってみて。あなたはもう一人ではない。ねえ、蒼然さま?」

「はい。朱実さん、あなたの強い心は多田羅を救います。そのお手伝いを、わたしもしたいと思います」


 泰然が朱実の肩をそっと撫でた。

 わたしのことも忘れないでほしい。もっと頼りなさいと言われている気がした。


(わたしが選ぶ道。わたしにしか選べない方法)


「ありがとうございます。少し、時間をください」


 その日、朱実は一人で夜を過ごした。自分にしかできないことは何なのか、夜通しずっと考えていた。


 ◇


 翌朝、朱実は早く起きて蒼然からならった朝食を作った。お米を丁寧に研ぐ。鰹節を削り出汁をとり、この土地の野菜をたくさん使ったお味噌汁を作った。

 養鶏場から分けてもらった卵を溶いて卵焼きを作り、魚の干物を網で焼いた。

 朱実は手間と時間をゆっくりかけながら、決心を固めていった。


「いただきます」


 この日の朝食はこれまでと違い、四人で食卓を囲んでいる。ここに来て初めて舞衣子が食事をしているのだ。神は人のように食べなくても生きていけるそうだ。それなのに蒼然は人がするよりも丁寧に、人の暮らしを送っていた。なぜなのだろうかと考える。

 それは恐らく、母舞衣子のため。脳の病で人生を終えた舞衣子のために、少しずつ人として暮らしていた日々を思い出させるためだったに違いない。

 そして、蒼然にたどり着いた朱実をここに置いたのも、舞衣子のためではないだろうか。


「朱実ちゃんのご飯、美味しいわ。食べるって、やっぱり素晴らしい。ありがとう」

「よかった。全て、蒼然さまのお陰なんです」

「朱実さんに、酷いことをしたことお詫びします。泰然から引き剥がしておいて、辛く当たりました」

「そんなことありません。神社の娘として、神の妻として必要なことだったと思います。それに、蒼然さまはわたしを母に会わせるためにそうしたのでしょう?」

「そ、それは……」


 朱実は箸を置いて、蒼然に頭を下げた。


「ありがとうございました」

「朱実さんには、敵いませんね。泰然はよいご縁に恵まれましたね」

「蒼然が多田羅から去ったお陰でもあるがな」


 笑ってよいのか微妙な雰囲気の中、再び朱実が口を開いた。


「わたしの決心を聞いてください」


 三人が同時に箸を置き朱実のほうを向いた。聞いてくださいと言っておきながら、ぎゅっと口を引き結ぶ。

 もう決めたことだ。

 これを口にしたら、もう後には引けない。自分だけではない、泰然の運命もを左右しかねない決断だ。

 泰然が優しい声をかける。


「朱実、誰のためでもない。お前のための決心であって欲しい」

「泰然さま」


 どこまでも泰然は朱実のことを想ってくれている。だからこそ、もう迷わない。ぐっとお腹に力を入れた。


「わたしは泰然さまとずっと、ずっと共にありたいと思っています。それにはわたしの人生は短すぎます。だから」


 泰然は朱実が何を言おうとしているのか、感じ取ってしまった。早まってはいけないと言いたくなる口をなんとか閉じた。蒼然は瞼を閉じている。舞衣子だけが朱実を真っ直ぐに見つめていた。


「朱実ちゃん、それであなたは後悔をしないのね」

「はい」

「それは本当にあなたの願いで、あなたの我儘なの?」

「わたしの、一生のお願いで、最大の我儘です。誰のためでもなく、わたしがわたしでいたいから」


 泰然の眉間には深く皺が刻まれている。朱実のその願いを承諾し、叶えてやれるのは夫である泰然だけ。


「泰然さま! わたしを」

「朱実」


 泰然の声と同時に、景色が一変した。

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