第32話 秋の神に仕えて

 千早に着替えた朱実はさっそく神殿に向かった。

 本来ならば、何人かの神職がおり参拝者にも本殿に向けて礼を促すのだが、見る限り朱実と蒼然の二人しかいない。

 蒼然は何も言わず、ただ黙って朱実を見送った。もしも彼が泰然ならば、少なからず声をかけてくれたに違いない。


『大丈夫だ。自信を持ちなさい。私はここに居る』

(泰然さま……)


 朱実は本殿左手から静かに足をすめ、蒼然に一礼、そして向きを変えて本殿に深く一礼をした。

 参拝の手順に倣って一礼二拍手一礼を行い、いよいよ祓詞を唱える。緊張で手から汗が滲むが、小さい頃からずっと聞いてきた詞は口を開くとすらすらと流れるように溢れ出た。


 高天原たかまのはらに 神留かむづます *・゜゚・*:.。..。.:*:.。. .。.:*・゜゚・*


 声は震えることなく、自分でも驚くほどに澄んでいた。宮司である父の声とは違うのは当たり前なのに、どこかで聞いたような懐かしさと切なさを覚えた。


(わたしの声なのに、わたしの声じゃないみたい)


 大祓詞は小さい頃から毎日聞いてきたので、紙を見なくても分かる。詞の節は賢木家で代々受け継がれたものだ。


 *・゜゚・*:.。..。.:*・:.。. .。.:*・゜゚・*

 罪と云う罪はあらじと 祓え給ひ清め給ふ事を

 天つ神 国つ神 八百萬神等共やおよろづのかみたちとともこしせとまをす *・゜゚・*:.。..。.:*:.。. .。.:*・゜゚・*


 朱実は深々と本殿に頭を下げた。そして、大麻おおぬさを手に取り、そこにいるはずのない人々の穢れを祓うために立ち上がった。


「それでは、皆さまの……えっ」


 数人ではあるが、頭を下げる街の人がそこにいた。てっきり誰もいないと思い込んでいた朱実は驚いた。どんなに小さな神社でも、人々の信仰がある限りその神社が死することはないことを朱実は知っている。


(この人たちに幸多からんことを。今日も良い一日でありますように)


「それではみなさまの穢れをお祓いいたします。頭をお下げください」


 パサッ、パサッと大麻を左右に振った。


(これでいいのかしら。わたしなんかで祓えるのかしら……不安だわ。あっ)


 見れば参拝者の周りを蒼然が歩き、穢れを祓っているではないか。蒼然の手から黄金色の瞬きが散っている。神みずからその手で人々の穢れを祓うならば心配はいらない。それと、同時に朱実には分かったことがあった。


(そうか。穢れって、わたしたち神職が祓っているのではないのよ。こうやって、神様がしてくれていたんだわ!)


 蒼然が一人一人に手をかざし、穢れを祓い、幸を呼ぶ。朱実はその一連の動作に目を凝らした。しかし、参拝者には蒼然の姿が見えないのだろう。目の前を蒼然が通っても何もないかのように朱実の方を見ているだけだ。


「皆様の一日が、よき日となりますようお祈りさせていただきました」


 大麻を収め、再び神殿に一礼をすると朝のおつとめ終わりだ。


(ふぅ……なんとか無事に終わった)


 するとその時、年配の参拝者が朱実に声をかけた。


「巫女さん! いつまでいるのかい? 久しく来てなかったら、こんな可愛らしい神職さんがおって驚いた」

「いつまで、とは言えませんが。いつでもご参拝は歓迎いたします」

「ここは誰もおらん寂しい神社と思っとったけど、時々でもこうして巫女さんが来てくれるなら、ありがたいねぇ」


 朱実のすぐ近くにあんなに立派な狩衣を着た蒼然いるのに、やはり彼には見えないのだ。彼らが蒼然を見ることができたら、もっと喜ぶのでがないだろうか。いや、これでいいのだ。

 そうでなければ神職の存在価値はなくなる。

 神職は神と人とをとりもつ役目を担っている。間に立つものがいるからうまくいっているのだ。もしも直接触れ合うことができてしまったら、人々の欲望は膨らむに決まっている。

 見えない、会えない、そこにあるかないか曖昧だから人は信仰をするものだ。


(人はわがままだから、いいときは神様を信じるけれど、悪いときは神様のせいにしちゃうのよ。だからわたしたちが間に入ってクッションにならないといけない)


 朱実はにこやかに笑うと、こう言った。


「ここには、本当に素敵な神様がお住まいですよ。羨ましいです」

「そうかね。それなら、嬉しいねぇ」


 田舎の小さな神社では行事の時と掃除の当番の人が訪れるくらいで、わざわざ参拝にやって来る者はほとんどいない。気まぐれで学校帰りの子どもたちが立ち寄ることはあるが、手すら合わせない。

 そうだとしても、赤い鳥居をくぐったら、そこは神域。

 心を澄まして目を閉じ祈る場所。

 いかなる人も、物も、拒むことの無い場所だ。


 ◇


 こうした日々が約一か月続いた。

 一日に一回は泰然とメールのやりとりこそすれ、電話で言葉を交わすことはしなかった。それは朱実のけじめでもあった。声を聞けば泣き言をいってしまうからだ。

 秋の神に仕えると決めたのならば主は蒼然である。

 蒼然といえば相変わらず寡黙で、必要最低限の話しかしてくれない。朝の務めが終わると、境内を回りお清めをする。それが終わると山の上にある畑に向かってしまう。一度畑に上がると夕刻まで戻ってこない。そのあいだ朱実は神社を守るのだ。

 掃いてもきりなく舞う落ち葉、鳥が悪戯をして木の実をまき散らす。めったに人が訪れない代わりに、たぬきやイタチが朱実の顔を見にやってくる。初めは物珍しさに使づいて逃げられたけれど、今ではそこに住む住人のように同じ空間を共有するまでになった。


「あらあら。こんなに落としたら参拝者が踏んじゃうでしょう。ここはだめ」


 鳥に人間の言葉が通じるはずもないが、話し相手がいないのだから仕方がない。今日はリスが赤い実をどこからか持ってきて、朱実の足元に置いて行った。


「ありがとう。あら、これは南天の実じゃない? もう、そんな季節なのね」


 朱実がそうつぶやくと遠くから見ていた森の動物たちが近くにやってきた。じっと朱実の方を見ている。


「じゃあ、今日はみんなにわたしのお話をしてあげる。わたしの名前はね、朱実っていうの。朱い実って書くのよ。こんなふうに、ね」


 朱実は指で地面に名前を書いて見せた。すると、今まで一定の距離をたもっていた動物たちが触れられる距離までやってくる。


「あなたたち、すっかりわたしに慣れたわね。えっとね、この朱い実は冬に実をつける南天の実なの。ほら、これのこと。日本ではね、難を転ずるって言っていい意味を持つ植物なのよ。そうなるようにって、わたしのお母さんが名前をつけてくれたの。そのお母さんは、わたしが小さいときに病気で死んじゃったの。だから一緒に過ごした時間が短くて思い出も少ししかない。でもね、とてもきれいな狐さんだったのよ。お母さんならわたしよりもっと早くに、みんなと仲良くなれたと思うわ」


 母との思い出は本当に少ない。

 でも鮮明に覚えているのは秋の大祭で母が舞を披露する姿だ。父の笛の音に合わせて狐の姿になった母が舞う。とても幻想的で、子ども心にも切なさとは儚さを覚えたものだ。


「いつも感謝をしなさいって。この国は神様に守られて成り立っているのよって。いつも心にありがとうをもって生きるようにって教えてくれたの。そうだ、お母さんからはね、いつも金木犀の香りがしていたの。どうやったらそんないい香りがするんだろって考えてた。大人になってなんとなく分かったんだけどね。お母さんは秋の神様が大好きだったの。どうして結婚しなかったんだろうね。わたしはお母さんと真逆な選択をしてしまったから、お母さんは怒っているかな。多田羅の繁栄をわたしが壊してしまうかもしれないしね。だって、お母さんからしたら、わたしはやっちゃいけないことを、やってしまったから」


 朱実の周りにいた小さな仲間たちは、何かの音に驚いて森に逃げ帰ってしまった。それは、朱実が大粒の涙を地面にぼたぼたとこぼしたからだ。雨が降ってきたと勘違いをしたのかもしれない。


「うっ。ううう......」


 そんな朱実を遠くからじっと見ている者がいた。

 月白色の衣を身に纏った蒼然だ。

 空はいつの間にか曇って、今にも雨が降りそうだった。

 秋は深く、まもなく冬が訪れる。

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