第26話 ごめんなさい!

 神殿の湯船に浸かると、気だるさや悶々とした気持ちが薄らいでいく。うじうじと自分を責めてばかりいた朱実の脳から靄が消えていく気がした。


「朱実さま、少しよろしいでしょうか」


 脱衣室からお加代がそう言った。


「はい、どうぞ」

「失礼しますね」


 湯気の向こうから狗の耳、手足は動物のそれで、尻尾を垂らした半獣の姿をしたお加代が現れた。

 お加代の耳や手足を見たのは初めてだった。とても美しい白銀の艶のある毛だ。


「こんな姿でごめんなさい。でも、朱実さまには見てほしかったんです。わたしがまだ人に飼われていた頃は黒と茶のマダラ模様の毛でした」

「人に飼われていたころ?」

「はい。でも、ずいぶん昔です。まだお侍さんがいた頃ですから」

「お侍さんって⁉︎」


 お加代が犬として人に飼われていた時代はかれこれ数百年も前の話。最初の飼い主が老いて死ぬと、見た目のせいか子どもたちから石を投げつけられたりしていじめられたそうだ。餌も与えてもらえず、町を徘徊しながら魚の骨や野菜の端切を食べて辛うじて命を繋いでいた。

 人に会えば醜いと追い回され、逃げ回るうちにどんどん体はみすぼらしくなり、通りすがりの浪人から刀を振り下ろされたこともあった。


「もう死んだ方が楽だなって思って、道端に身を転がして運命に任せたんです。でも、そんな時に限ってだあれも通りかからなくて。なんてついてないんだろうって、鳴きました。遠吠えなんてする元気もないから、とても情けない声だったかな。そしたらね、急に太陽がさしたんです。とても優しい光で暖かくて。やっと死ねる。神さまがお迎えに来てくれたんだって嬉しくなったんです」


 お加代の過去を初めて聞いた朱実は、驚きながら湯船から出た。檜の椅子に座ると、お加代はタオルを朱実の背中に掛けた。


「でも、死ななかった。それは太陽じゃなくて、蒼然さまだったんです」

「蒼然さま……」

月白色つきしろいろの狩衣を着た蒼然さまは、天女みたいに美しくて……。汚らしいわたしを抱え上げてね、こう言ったの。わたしの神使になりませんかと。よく分からないままわたしは蒼然さまと神使契約を結びました。そうしたらね、ほら見て。こんなに美しい毛が生えてきたの。蒼然さまの髪の色と同じ色なの」

「蒼然さまと同じ色……。とても、きれいね」

「そうでしょう? わたしは蒼然さまのために命を尽くそうって思った。恩返しになるか分からないけれど、ずっとずっと蒼然さまのために働こうと決めたんです」

「待って、それなのに、わたしの父が蒼然さまを! お加代さん、ごめんなさい」

「聞いてください、朱実さま。わたしはあの時、朱実さまのお母様が婚姻をお断りしたことに安堵していたんです」

「えっ」

「だって、そうしたら蒼然さまはこの世から居なくならない。ずっと神として存在するから。人と結婚するということは人として一生を終えてしまう。そうしたら、わたしはまた一人ぼっちになるから」


 お加代はそこまで言うと、朱実の前で泣き崩れた。


「でも、それは間違い。わたしの勝手な思いだと気づきました」

「お加代さん。お加代さんは間違ってない。母も蒼然さまには神様として生きてほしくて、お断りしたんだもの。わたしの方が自分勝手なの。自分ばかりが幸せになろうだなんて」

「いいえ、朱実さま。わたしは泰然さまと朱実さまを見て思ったのです。二人が仲睦まじく生きることが多田羅のためになるのです。神が人になり人として生を終えても、魂は土地に残りまた神として生まれ変わります。朱実さまだっていつか神としてこの土地を守る日がくるのです」


 多田羅神社では死んだものはその家の、あるいはその土地の神になるといわれている。お加代はそのことを言っているのだろう。


「お加代さん……」

「朱実さま。どうかご自分を責めないでください。あなたの決めた道を進んでください」


 お加代もきっと、自分を責めていたに違いない。ひと時でも、蒼然が人間と結婚しなくてよかったと思ってしまったことを。神使として、主人が想いを全うできるように支えるべきだったのにと後悔したに違いない。

 何が正解で、何が間違いなのかわからない。考えれば考えるほど、迷い込んでしまうのだ。だから自分を責めることでそれから逃げていた。


「みっともないところをお見せしてしまいました。朱実さま。お体、流しましょうね。お加代もお風呂ご一緒してもよいですか」

「ええ、もちろん」


 湯船に浸かった二人は、ぼんやりと登っていく湯気を見ながら互いに大きなため息をついた。


「朱実さま、お母様にも何か理由がおありだったかもしれません。だって、想いは永遠なんですよ。その想いが神を生み、育てるのですから。わたしは、蒼然さまに会いたいです。会って、お礼が言いたい。あなたの神使になってよかったですって」


 母の本当の想いを知ることはもうできない。しかし、蒼然に会って話を聞くことはできる。二人がどんな話をして、そして別れることになったのかを。


 ◇


 それからしばらくしたのち。


「お加代がついていながらこの失態! どうしてくれよう!」

「マサ吉さん、お加代さんを責めないで。わたしの不注意たから」

「マサ吉、悪いねぇ。本当に……むにゃむにゃ」


 お加代はマサ吉におぶさったまま眠ってしまった。朱実はというと頬を赤く染めて、泰然に抱きかかえられての移動である。

 二人は長風呂をしてしまいのぼせてしまったのだ。


「泰然さま、すみません。お手を煩わせてしまいました」

「なにも気にするな。気分はどうだ。少し冷たいものでも口に入れた方がいいな。マサ吉」

「はい。すぐにお待ちしますので」


 朱実はまだ泰然の顔をまともに見ることができなかった。自分勝手な行動で泰然を傷つけていると思っているからだ。それでも泰然は変わらず朱実に優しい。

 寝室に入ると泰然は朱実をそっと布団の上に下ろした。


「目眩はしないか? 顔を見せてごらん」

「あの、大丈夫です。こうしていればすぐによくなります」

「朱実」


 泰然の指が朱実の頬に触れた。その指先は思っていたより冷たくて驚く。しかし、その冷たさがいまは心地よい。朱実はうっとりと目を閉じて、そっと顔を上げた。

 ゆっくりと泰然の気配が近づいてくる。ああ、やっぱり泰然のことが好きなのだと思い知る。

 朱実はもう観念した。


(わたしには、わたしの生き方がある。そう思ってもいいのかな)


「泰然さま、わたし」


 その時、マサ吉が現れた。


「冷たい葛切をお待ちしま……した! こ、こちらに置いておきますので。失礼いたしました!」


 なんてタイミングで来てしまったのだと、マサ吉は大慌てで逃げるように去っていった。泰然はその様子にクスッと笑いながら、マサ吉が置いていった七色に光る器を手にとる。


「マサ吉が作る葛切はなかなかのものだぞ。食べるか」

「は、はい。いただきます」

「ではわたしが」

「えっ、大丈夫ですよ! 自分で食べられますから、泰然さま……んんっ」


 抵抗する間もなく、泰然が箸で掬った葛切は朱実の口の中にするりと入った。口の中に広がった程よい甘味がツルンとした喉越しで胃の中に収まる。


「マサ吉の葛切りだ」

「美味しいです」

「今度は密につけて食べてみよう。さあ、口を開けてごらん」

「あ、はい」


 和三盆糖で作られた蜜が朱実の口の中に広がった。


「マサ吉さんの葛切、とても美味しいですね。なんだか心が穏やかになっていく気がします。とても、優しい味」

「そうか。それは、よかった」


 ふと見上げた泰然は目尻に皺を寄せて微笑んでいた。しばらくぶりに見た泰然の顔を見て、朱実は泣きたくなった。


(泰然さまは何も変わらない。いつもわたしのことを思ってくれている。それななに)


「泰然さま、ごめんなさい」

「朱実?」

「泰然さまの気持ちを考えずに、わたしは一人で勝手に悲しんで、苦しんで……泰然さまも傷つけました。本当に、ダメな人間です」

「ダメな人間などと言ってはいけない。朱実は多田羅のことや私の事を考えて悩んでいたのだから。だが、一人で思い病むのはこれで最後にしてほしい。蒼然と朱実の母君と私たちとでは違うのだ。生まれも育ちも、そして死にゆくそのときまでの過程も違う。人それぞれ、神それぞれ。同じではないのだから」

「泰然さまはそれでいいのですか。わたしと結婚して、人と同じように老いて死んでも」

「私が望んでしたことだ。私にもどう生きるかを選択する権利がある。それを他の者の価値観でそうあるべきではないと、否定されるのは悲しいものだ」


 朱実は泰然の胸に顔を埋め、腕を背中に回した。そして泰然の着物を強く握りしめて叫んでいた。


「ごっ――、ごめんなさい!!」


 泰然は子供のように謝り、泣き叫ぶ朱実を包み込むように抱きしめていた。

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