千里香の護身符
佐伯瑠璃(ユーリ)
第一章 土地神さまと狐の舞
第1話 狐の舞
「春には
この国は昔から神様に守られてきたわ。だからわたしたちはいつも心に感謝の気持ちを持たなければならない。
「はい! あけみも大きくなったらお母さんみたいなキツネさんになる」
「朱実ならきっと、素敵な狐の舞を踊れるわ」
「ねぇ、あけみからもキンモクセイの匂いが出る?」
「朱実はお鼻がきくのね。そうねぇ、朱実はどんな匂いが出るかしらね……」
母からはいつもかすかに、金木犀の香りがした。
◇◇
その名を多田羅神社。
人口およそ一万人の小さな町にあるこの神社は、江戸時代中期から続く由緒ある神社だ。
周囲を山々に囲まれたこの町の四季はとても素晴らしいものだ。春には野草が芽吹き命の輝きを放ち、夏は緑が煌々と反射して生きとし生けるもの全てに活力を与えた。秋には稲穂が黄金色に実り人の胃を満たし、冬は真白の雪に覆われて静かに年の終わりを迎える。自然に恵まれたこの町の人々は豊かな心をもって暮らしていた。
言い伝えでは、この町には神が降りてくるそうで、多田羅神社では四季折々の神事が執り行われていた。
その度に神渡りがあり、お陰様でこの町は繁栄してきたのだ。
しかし、それが近頃どうもおかしい。
『今日は大陸からの高気圧が大きく張り出し、全国的に秋晴れとなるでしょう。お洗濯日和ですね』
「秋晴れかぁ……今にも降り出しそうなお天気ですけど?」
朱実の名は母である舞衣子がつけたそうだ。真っ赤に染まる南天の赤い実からとった。難を転じ、闇を照らす希望の灯となるようにと。
「来月には五穀豊穣の大祭があるのに、祈る前から雲行き怪しすぎるじゃない」
朱実は巫女として舞を踊り神に祈りをささげる。まもなく秋の大祭が行われる予定だ。
しかしここ十数年、多田羅町の空はすっきりとしない。雲に覆われるどんよりとした日が年間の半分を占めるようになった。日照数が足りないせいで作物の状態もよくない。自慢だった米も、最近は中の下で安価でしか売れなくなった。生計のため若者は家業を継ぐ事を諦め、そのせいで人口流出も止められなくなった。
何かがおかしい。
多田羅神社の氏子の代表は頻繁に会合を開くようになっていた。
そんなある日のことだ。
朱実はお茶を盆に乗せ、社務所の広間に入った。今日も氏子たちが話し合いをしているのだ。
「失礼いたします。お茶をお持ちしました」
「おお、ありがとう朱実ちゃん。すっかり美人さんになって、ますます舞衣子さんに似てきたね」
「そんなに母に似ていますか?」
「うん。いいお婿さんがくるんじゃないかね」
「もうっ、松永さんてば。あまり
松永は多田羅町で松乃家という旅館を営んでおり、氏子の代表でもある。
「宮司もそろそろ、この寺の後継者のことを考えてもらわんと。朱実ちゃんに婿をとるか、養子をもらうか。最近、神社庁の方から通達があったと聞きましたよ」
「ええ、まあ」
神社庁は各地にある神社を取りまとめるところであり、人員不足による職員の配置や神社のあり方、財務や神職の指導などを仕事としている。文部科学省の管轄になるが政府の機関ではない。
宮司で朱実の父である
「あっ、そうだ! 次の日曜日に、
重い空気が苦手な朱実は話の途中で切り出した。眉間にシワを寄せていた父が助かったとばかりに顔を上げる。
「ああそうだったね。くれぐれも舞の手順を間違えないように。狐の面はあとで私がお祓いをしておこう」
「お願いします。神社は助け合いですもんねっ」
「まったく朱実ちゃんは、人気者で困るよ。
「まさか!」
「その顔。朱実ちゃんは本当に、あはははは」
朱実が少し大袈裟に目を見開いて心外だわと憤慨してみせると、笑い声が部屋に響き渡った。
朱実の目に映る年老いた氏子たちのシワシワの笑い顔と、父の困ったように眉を下げて笑う顔がいつもの多田羅町の顔だ。
(この笑顔を絶やしたくないなぁ)
◇
椎野町、
シャリン シャリン ドン ドン シャランシャラン
禊ぎを終えた巫女たちが正装の千早をまとい、神楽殿の前に現れた。頭飾りは巫女の額を覆うほど垂れ下がった稲穂である。神に作物の豊作を感謝する意が込められている。毎年、地域から選ばれた小学校高学年の女児数名が五穀豊穣の舞を踊るのだ。
その舞が終わると可愛らしい巫女たちが二手に別れ神楽殿への道を作った。
そこに現れたのが朱実である。
他の巫女たちとは少し異なる装いをしている。通常であれば白衣に緋袴を穿き白地に縁起物の絵があしらわれた千早を羽織るのだが、朱実の舞の装束は違う。
白の襦袢の上に白衣ではなく深紅の衣を着て、同じく緋色の袴をつける。そして真白の
本来、
狐の面を付けた朱実は静々と神楽殿に上がり舞を捧げた。シャンシャンと鳴り響く鈴の音と、その中で蝶のように軽やかに舞う女狐に、人々は釘付けとなった。
鈴が鳴るたびに金粉が舞うのではないかと錯覚するほどの残影が神楽殿を包み込んだ。
狐は神の使いでもあり、古くから五穀豊穣を祈る時に欠かせないとされていた。
朱実は全ての舞を終えると、鈴を鳴らしながら中央で振り返る。そして、狐の面を外し天に掲げた。それを見た参拝者たちは「はぁ…」と溜息を漏らす。
なぜなら面の下には、これまた美しい狐の顔があったからだ。
真っ白に塗られた顔に目元は紅色のシャドウ、口紅も真っ赤に塗られ、極め付けは両頬に花びらのような髭が描かれてある。
まさに妖艶な女狐がそこにあった。
「狐の嫁入りじゃ。なんと美しい女狐じゃ……神様がお喜びになる」
老人がそう呟いた。
この土地には古い伝説があった。
一年を通して日が差さない寒い年があった。春は曇り空、夏は長梅雨で、収穫の秋には作物の根が腐り虫が湧いた。冬は飢餓に耐え、新しい春を待った。
待ちに待った春は人々の願いを黒く覆った。また、日が差さない年の始まりだったからだ。
そこで村の長老は禁断の儀式を持ち出した。山の神に生贄を捧げ、それと引き換えに日の光を与えてもらおうと考えたのだ。しかし神は人の臭いを嫌うという。神は高貴な者であり人は
そこで村人たちはまだ幼い麗しい生娘を選んだ。選ばれた娘は村のためと泣く泣く狐の面を付け、
神は喜び、すぐに空は晴れた。一年振りのお日様だった。
しかし、神輿に乗せられた娘は、悲しみのあまりしくしくと泣いていたそうだ。娘の涙はやがて天に登り、晴れた空からキラキラと輝きながら雨となって降り注いだ。
これが、狐の嫁入りである。
大きな拍手が起きた。
「今年も豊作じゃ」
「よかった、よかった」
「本当にここのお狐様は美しい」
朱実は参拝客に礼をすると、人々の言葉を背に静かに神楽殿を後にした。
朱実の神社では決してこの舞は踊らない。
それは父である宮司が許さないからだ。朱実の暮らす多田羅町で、狐の面を付けると隠り世の鬼から攫われるそうだ。朱実の母の代まで多田羅神社でもこの奉納の舞が行われていたというのに。
そのせいか、密かに氏子たちは噂をする。多田羅町は五穀豊穣の狐の舞いをしないから不作なのではないか。天候に恵まれないのは狐の舞がないからだ、と。
「どうしてお父さんは多田羅神社ではこの舞いをさせてくれないんだろう……」
朱実の疑問も大きくなっていった。
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