第5話
「もしかして川の近くにいる?」
「すごい、よくわかったね」
「水の音がしたからな。インドと言えばガンジス川だっけ」
「ううん、私がいるのはもっとやばい川。地獄みたいな」
「どんな川だよ」
電車を降りて駅を出た僕は再び沙耶に電話をかけた。
メッセージよりも電話のほうが手っ取り早くて好みだ。打ち込む必要がないから歩きながらでも問題ないし。
「ね、さっき言ってた話だけどさ」
「カレーは最高って話?」
「ちがうちがう。世界は広いねって話だよ」
電話口から沙耶の声と車のエンジン音のようなものが聞こえる。
いつもと変わらないはずの声なのに、なぜか背中がざわついた。
「私ね、色んな国の色んな人と出会って話をして、みんなそれぞれ色んなことを考えてて、本当に世界は広いなって思ったの。世界の広さって、どれだけ沢山のことを考えられるかってことなのかも」
「人は考える葦とも言うしな」
「そう。だから私たちは考えなきゃいけないんだと思う。じゃなきゃ、ただの葦だから」
言い知れない感覚が僕の背中を押す。不安や焦りに似た気持ちが襲いくる。
しかしそんなことには構わず、彼女の言葉は続いていく。
「……ねえ優くん」
そうか。
この声のトーンを、僕は聞いたことがある。
「大学生になってから四年間、毎日私を探してくれてたよね」
ありがとう、と礼を述べるその声は決して嬉しそうなものではなく。
今にも崩れ落ちてしまいそうなほど、切ない響きを伴っていた。
「あの時の私の言葉は君の世界を狭めてるんじゃないかな」
――ずっと私を探しててよ。
僕は今でもその声を、表情を、鮮明に思い出せる。
それほどに彼女のことを考えていた。
「だから私、かくれんぼをやめようと思う」
沙耶の声はどこか吹っ切れているように聞こえた。
本当はもっと早く言いたかったのかもしれない。
それでもどうしても口に出せなくて、彼女は四年も悩み続けていたのかもしれなかった。
「もう私を探さなくていいよ、優くん」
――そして。
それは、僕もずっと考えていたことだった。
「……僕もそう思うよ」
「うん、そっか。そうだよね」
「ああ。そろそろかくれんぼをする歳でもないしな」
電話口から声が途絶えた。
彼女は今泣いているのだろうか。それとも微笑んでいるのだろうか。この距離じゃ何も見えない。
僕は「沙耶」と彼女の名前を呼ぶ。
「前にさ、かくれんぼの良いところ話したの憶えてる?」
「あ、鬼が探してくれるところ?」
「そうそう。沙耶はそう言ってたね」
スマホが熱くなってきた。
画面と耳が触れ合わないように少しだけ離して、僕は途切れたセリフを繋げ直す。
「でも、僕はそれだけじゃ足りないと思う」
「足りない?」
「かくれんぼの良いところはさ、絶対見つからない場所を一生懸命考えて、流石にここには来ないだろってとこで息を潜めて、それを鬼が必死になって探し回ってさ」
そこまで言ったところで僕は通話を切った。
そして目の前で、地獄みたいな川面を見つめる彼女に向かって続きを話す。
「最後には見つけてもらえるところだと思うんだよな」
四年振りの幼馴染は耳に電話を当てたままの姿勢で、大きく見開いた目をこちらに向けた。
「……うそ」
微かに開かれた口元からそれ以上の言葉は出てこない。僕は眩しく照りつける日光を睨みつけながら額から流れる汗を拭う。
そして再び彼女に向き直った。
「ほんとに暑いんだなインドって」
さて、じゃあ希望通り。
僕たちの世界万国かくれんぼを終わらせよう。
「みーつけた」
声をかけてからしばらくの間、彼女は口を開けたまま固まっていた。
そして徐々に言葉を取り戻すようにゆっくりと声を出す。僕は電話を切った。
「……なんで、優くんがインドにいるの」
「僕が鬼だからだよ」
「ええ……?」
沙耶はまるで意味がわからないという風に言葉を失った。
僕は改めて彼女を見る。当然のことながら昔とは少し雰囲気が変わっていた。髪型も、日に焼けた肌の色も。
「話があるんだ」
けれど声をかける直前に見た彼女の表情は、あの日と同じように悲しげで。
だから僕は伝えなきゃいけない。
「沙耶。僕は君がいなかったらインドなんて来なかったと思う」
ここに来るまでの景色は忘れられない。
見たことのない模様。聴いたことのない音楽。食べたことのない料理。嗅いだことのない空気。触れたことのない土地。
自分を取り巻くすべてが新しい。これが世界地図のほんの一部なら、世界ってのはどこまで広いんだろう。
「沙耶のおかげで、僕の世界は広がったよ」
彼女の表情が変わる。
世界の広さを教えてくれたのは君で。
世間の狭さを教えてくれたのも君だ。
君のいる場所はすごく遠くて、それでも会おうと思えば会いに行けるんだって。
「だから、できれば」
あの時言えなかった言葉をやっと言える。
隠れても隠れていなくてもいい。世界の何処にいたって構わない。
だから今まで通り、今日も明日も。
「ずっとそばにいてほしい」
――彼女の泣いている顔も、僕は久しぶりに見た。
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