<7> 「居るだけでいい王妃」の日常
『この国に居るだけでいい王妃様』は常に退屈していた。不自由な事は何一つないが、やらねばならないことも何一つない。何もすることがないということは無駄に時間があるということだ。
この時間はまさに拷問だった。必然的に考えたり、思い悩んだりすることになり、精神的に追い詰められることになるからだ。「なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか」とか、「居るだけでいいという存在はどういうことか」そんな疑問が常に頭の中を駆け巡る。
居るだけでいい存在が、なぜ私なのか?――居るだけでいいなら人でなくてもいい。人形でもいいではないか――では、私は人形か?――私は一体何者なのだ?
そうした考えが堂々巡りをし、結局最後に辿り着くのは
「なぜ自分がこんな目に遭わなければいけないのか?」
だった。
腹の底から何かがこみ上げてくる感覚に襲われ、息が苦しくなる。慌てて深呼吸をし、気持ちを落ち着かせるが、次は瞼が熱くなる。そして思いは、自分の過去へ――元の世界にあった自分の儚い歴史を振り返る。とても短い過去だけど、楽しい出来事がたくさんあったはずだ。なのに思い出すことは後悔ばかり。父や母に反抗したことや、兄弟喧嘩、受験の失敗、揚句の果ては、遠い昔まで遡り、小学時代の友達同士の喧嘩など、すべて些細なことばかりだが、今更ながら申し訳なく、謝りたいことばかり思い出すのだ。
(あの夜だって・・・)
そう、あの夜。ここに連れて来られる前日。あの時、亘に対しての自分の態度はなんて酷かったのだろう。後悔してもしきれない。二度と会えなくなると分かっていたら、あんな傲慢な態度は取らなかったのに・・・。
時間が充分にあるために、こうした思いに浸り、一人涙に暮れているさくらを、ルノーもテナーも心配でならなかった。何か別な事に意識を動かせないものか。ある時ルノーはこう切り出した。
「王妃様。王妃様は、読書はお好きでございますか?」
「読書?」
「はい。この第一の宮殿の西の塔に大きな図書室がございます。よろしかったらご覧になりませんか?」
読書――。そうか、読書!さくらは目の前の霧が幾分晴れた気がした。実はそんなに読書をする方ではない。しかし、今、この何もする事がない時間が自分を苦しめているのは良く分かっている。何か別に集中できるものがあれば、やる事さえがあれば、この負のループから抜け出せるはすだ。それに文字!この世界の文字と言葉は、自分の世界の言葉を失った引き換えに、身に付けられた唯一のものだ。せっかく苦労もせずに得られた能力だ、使わない手はない。
すぐに案内して欲しいとルノーに頼み、その図書室に連れて行ってもらった。西の塔はさくらの部屋からそれほど遠くなく、方向音痴のさくらでもすんなり覚える事ができそうだった。
「わぁ・・・」
さくらは一歩部屋に入るなり、周りを見渡して、感嘆の溜息をもらした。
その部屋はとても広く明るく、高い天井まで届くほど、大量の蔵書が壁一面に埋まっていた。美しく装丁してある書籍の背表紙がまるで飾りのようだ。あまりの数に圧倒されながらも、特に読書派ではないのに、なぜか心が弾んだ。大量の書籍に囲まれたせいで、何もしていないのに自分が賢くなったような妙な錯覚をおこす。調子に乗って知識意欲も湧いてくるようだ。
「ここにあるものはすべて、国王陛下そして王妃様のご本でございます」
ルノーは、口をあんぐり開けて大量の本の壁に見とれているさくらに声を掛けた。
「必要とあれば、いつでも書籍係が参ります」
彼女は入り口近くの呼び鈴の紐を指した。
「お探しのご本がございましたら、いつでもお申し付けくださいませ」
「いつでも好きな時にここに来てもいいのですか?」
目を輝かせて問いかけてくるさくらを見て、ルノー思わず頬が緩んだ。毎日涙に暮れているさくらを見ているのが辛かったので、微笑んでいるさくらを見ると、なんとも言えない安堵した気持ちが胸に広がったのだ。
「もちろんでございます」
ルノーは恭しく頭を下げた。そして、うれしそうに部屋中を歩き回り、いそいそといろいろな本を物色し始めたさくらを見て、自分の策が功を奏したことに満足し、一人その部屋を退いた。
読書のほかにさくらの気を引いたのは、「お洒落」だった。同じ年頃のテナーが、さくらのお洒落心に上手く火を付けた。
さくらは普段過ごしている部屋が、自分の部屋でありながら、どうも他人の部屋のような余所余所しい気持ちが抜けず、必要最低限の物しか手に触れなかった。そのため、自分がどれだけの衣類や装飾品を持っているのか知らなかった。
テナーは、この部屋にあるものはすべてさくらのものだと切々と説明し、美しい三面鏡や装飾棚に飾られている宝石箱の中身を手に取るように勧めた。恐る恐る宝石箱を開けると、その中には首飾りや指輪などの素晴らしい装飾品が数多く並んでいた。その一つ一つを手に取るたびに、「ホゥ・・・」と溜息を漏らさずにはいられない。それらは今までのさくらの生活からでは、触る事はむろん、お目にかかることすらないであろうと思われる一品ばかりだ。
そして、同じように美しい数多く用意されている衣類。素材はどれもシルクやシフォンなど、とても柔らかでしなやかなものばかりだ。形はチュニック型のドレスがほとんどだが、さくらがとにかく気に入ったのは色合いだった。爽やかなパステルカラーのような色合いが多く使われ、とても可愛らしく、気持ちが優しくなる。
さくらはあっという間にこれらのものに心を奪われた。もともとお洒落を楽しむ年頃の娘なのだ。そのことに夢中になり他の事など忘れてしまうくらいの年頃。さくらも例にもれず、ここにあるドレスや宝石に夢中になり、毎日お洒落を楽しむようになった。そのことが、さくらを日々の虚しさから救い出してくれた。
しかし、現実はいくら着飾ったところで、行くところは所詮西の塔の図書室。そこで一日読書に耽る。そんな毎日だった。もともと根気の続く方ではないさくらが、そんな日々に飽きないわけがなかった。
ある日、図書室で本を広げながら、何の気なしに窓の外を眺めた。そこには広大な敷地が広がっている。手前には庭木の手入れがよく行き届いた庭園。そしてその奥には、まるで森のような鬱蒼とした緑が広がっている。さくらは普段何気なく見ている風景に、今まで何も関心を持っていなかったことに気が付いた。
(そうだ、庭を散策しよう!)
またまた新しい「やる事」を見つけた途端、さくらの気持ちは上昇し、居ても経ってもいられなくなった。すぐにルノーを探し出し、庭に出てもいいか聞いてみた。
「『第一の宮殿』の庭園内でしたら、よろしゅうございます。しかし、『第二の宮殿』はお一人でお入りになってはなりません」
さくらはそれを聞くと、分かりました!と一言うやいなや、一目散に庭に駆け出していった。驚いたルノーはすぐに、お供をしようと追いかけたが、さくらの速さについて行けず、あっという間に見失ってしまった。
庭園に出たさくらは、爽やかな風と燦々と降り注ぐ日の光に夢中になった。思えば、今まで外に出たのは、婚儀の儀式の時に、第一の宮殿と第二の宮殿を結ぶ中庭を歩いた時だけだ。久々に自ら進んで屋外に出たさくらは、自由と開放感に満たされた。大きく息を吸い、思いっきり吐き出してみる。なんとも言えない充実した気持ちになった。
さくらは、大きな庭園をぐるりと見渡した。宮殿の入り口から一直線に伸びている参道を中心に、左右対照的に美しい芝が青々と広がっている。参道の途中途中には美しく装飾された石造りのベンチが置いてあり、いつでも休息できる状態になっている。そして奥には人工的に作られた滝と池があり、この庭園の終わりを告げていた。
しかし、その更に奥に大きな森が広がっていた。途方もない広さにさくらは子供の頃に持っていた、冒険心が沸々と甦ってくる思いがした。これから始める探検に何か素敵な事が待っているかもしれないと、そんな子供じみた思いが頭を過った。
一方、とにかく虚無な時間の浪費から逃れ、心癒される場所を探したいという、くたびれた中年女のような願いも急速に強まる。
そんな二つの思いが相まって、さくらは興奮気味に庭園に足を踏み入れた。
そして、これがさくらに思わぬ出会いを招く事になる。
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