<65> タヌキ

本日の書類は緊急を要していたらしい。

たまたま香織は席を外していたので、別の女子社員が頼まれたようだ。


その社員は申し訳ないが、今後はその人のお役目になるといいなと、香織は思わずにはいられなかった。


しかし、その女子社員は役員フロアから帰ってくると、香織に話しかけてきた。

かなり顔が険しい。


「原田さん、いつもあの秘書と話してるの?」


「え?」


香織は聞かれている意味が分からず、首を傾げた。


「何か、すごく感じが悪いんだけど」


「あ、もしかして常務の秘書の方ですか?ちょっとツンとしてますよね」


香織は適当に話を合わせた。

しかし、女子社員は首を振った。


「違う、副社長の秘書の人。書類も奪い取るようにしてさ、感じ悪いったら!」


「え?そうなんですか?いつもにこやかですけど。ご機嫌悪かったんですかね?」


香織はますます首を傾げた。


「この間なんか、めちゃめちゃ機嫌よくって、感じが良かったです・・・けど・・・」


そこまで言って、あることを思い出した。

そう、彼女の機嫌が良かった理由・・・。

それは陽一絡みだ。


(え゛・・・。もしかして・・・)


香織の顔からサーっと血の気が引いた。


普段、とてもにこやかで礼儀正しくて、完ぺきな営業スマイルができる人だ。

その笑顔が崩れるなんて、絶対に私情が絡んでいる。感情が乱れている証拠だ。


先輩女子社員の怒りも収まらない。


「私、もう部長に頼まれても秘書室には行かない。副社長に直接手渡し出来るなら行くけど」


だから原田さん、今後はよろしくね。と言う言葉は発しなくても、目で語っている。


「・・・ははは・・・」


香織は笑って誤魔化した。


(だから、隠せって言ったのに~!)


情事の相手がバレなくても、間接的に迷惑を被るということが分かり、無神経な陽一を呪った。


(ああ、それにしても王子様いうのは、ホント、厄介だ・・・)


香織はプンスカしながら自分の席に戻る女子社員の背中を見ながら、ため息を付いた。



                   ☆



陽一が、とうに秘書らの事などすっかり忘れて、仕事に没頭しているところに、電話の内線が鳴った。

通知番号を見ると会長席からだった。


「チッ」


陽一は舌打ちをすると、受話器を取った。


「はい」


「陽一、悪いが部屋まで来てくれ」


受話器の向こうから正則の声が聞こえた。

どうせ大した話じゃないことは分かっている。

仕事の切りが悪いところに持ってきて、どうでもいい話をされると思うと苛立ちが募る。


イライラしながらも、


「分かりました」


と言って受話器を置くと、背広を掴んで、足早に部屋を出た。


会長室に入ると、正則は席から立ち上がり、応接のソファに座るように陽一を促した。

だが、陽一は他の人がいないのが分かると、


「今、忙しいんだよね。手短に話してくれる?」


ソファに腰掛けず、立ったまま正則に尋ねた。

そんな陽一を正則は軽く睨みつけた。


陽一は、他の役員や社員がいる前では、決して自分に対して横柄な態度は取らない。

一歩引き、常に会長として自分を立てて、礼儀正しい態度を保っている。

伯父である社長に対してもそうだ。


だが、二人きりや身内だけになった途端、態度が横柄になる。

気を許していると言えば聞こえはいいが、実のところそうでもない。

中学生の反抗期のような目を注がれるたびに、正則は陽一が自分に懐いていないことを実感する。


「週末に会食が入った。同席するように」


「へえ。会食?どこと?」


「神津建設だ」


あー、と陽一は頷いた。

神津建設とは、今進めているプロジェクトの一つを任せている取引先だ。

だが、陽一自身、そのプロジェクトにはメインで関わってはいない。


それでも同席を求めるのには、正則に裏があることなど簡単に想像できる。

同じような手口で、見合いまがいの事を何度もさせられた。

その度に、狸爺!と心の中で悪態を付いていたのだ。


「分かったよ」


しかし、陽一はあっさりと了承した。


「話はそれだけ?だったら戻るけど。仕事が立て込んでるんだよね」


「ああ」


正則の返事を聞くと、陽一は頭も下げずに踵を返すと、さっさと部屋を出て行った。


陽一は自分の部屋に戻ると、すぐにどこかに電話を掛けた。

立て続けに電話を掛けた後、秘書を呼びつけた。


秘書は沈んだ様子で部屋に入って来た。だが、


「坂上さん、急で申し訳ないけど、これ、急ぎでお願いできるかな?」


にっこりと笑う陽一の顔に、秘書は二つ返事で引き受けた。

うっとりとした顔で陽一からメモを受け取ると、急いで秘書室に戻って行った。


「ま、とりあえず、今回はこんなもんか」


秘書を送り出した後、陽一はそう呟くと、中断していた仕事に取り掛かった。

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