月影の盗賊と陽光の商人

みすたぁ・ゆー

第一幕 絶望の中に


 冷たい雨が全身に打ち付けている――。



 昨日の夕方から降り始めた雨は、未明になると激しさを増していた。動物たちはどこかへ姿を潜め、森の中には雨音だけが響いている。


 足の裏から伝わってくるのは、ぬかるんだ土と腐りかけた落ち葉の感触。時折、指と指の間に小石が挟まって痛さを感じる。もしかしたら擦り切れて血が出ているかもしれない。


 でも立ち止まって確認する余裕なんてない。今は体力が続く限り、ひたすら走って逃げなければならないのだ。



 ――もし捕まればきっと問答無用で殺される。



 幸い、俺には暗闇でもモノが見える『夜目』の能力がある。エルフなんかが持っているものと同じ力だ。これは逃げる際には大きなアドバンテージ。明るくなる前になんとしてでも逃げ切らねばならない。


 ちなみに俺は人間だけど、物心ついた時からこの能力が備わっていた。ほかの種族の血をひいている可能性もあるが、孤児だから出生については何も分からない。


 しかも世話になっていた孤児院は俺が六歳の時に経営難で破綻。挙げ句の果てに俺は院長の借金のカタとして奴隷商人に売られ、こうして五年も鉱山で働かされてきた。もはやルーツを辿る術は失われている。


 ……ま、知る必要もないし知る意味も感じないから良いのだが。


 その鉱山でも周りのヤツは病気や過労でどんどん死んでいった。


 いや、命があるだけの、心はすでに死んでいるヤツは数え切れないくらいいる。命令された労働を黙って繰り返すだけの人形みたいなヤツが。


 ――でも俺は違う! あんなところから抜け出して、自由を手に入れるんだ!


 そのために綿密に計画を立て、数か月かけて準備をしてきたんだ。捕まってたまるか。


 普通の人間である追っ手にとっては、この暗闇は捜索の障害になるだろう。さらにこの豪雨。物音や気配をかき消してくれる。今まで過酷な運命ばかり背負わせてきやがった神様も、ようやく俺に味方してくれたらしい。


 もちろん、見張りの連中には地の利と捜索に当たる人数、体力、走り続けられる持久力――ほかにもたくさんの優位点がある。つまり圧倒的に不利な状況に変わりないのだが、総合的に勘案すれば今が俺にとって最大の好機であることは間違いない。


 どうせあのまま働き続けていても、その先に待っているのは惨めな死。細々と命を長らえさせたって意味はない。だから俺は人生の全てを、このちっぽけな可能性に賭ける。




「はぁっ……はぁっ……ぁ……」


 どれくらい走り続けたのだろう。時間の感覚も距離感も分からない。ただ、もはや疲労で足が動かない。


 俺はすぐ近くの木の下で、仰向けに転がって激しく何度も呼吸した。すると雨の匂いと土の匂い、若草の匂いがごちゃ混ぜになって体の中に染みこんでくる。


 あぁ、こんなにも世界はいい匂いに包まれていたのか……。




 俺はずっと鉱山に軟禁状態で働かされていたから、こんなに心地いい匂いを嗅ぐのは久しぶりだ。すっかり忘れていた感覚だけど、いざ触れてみると何の匂いかすぐに分かるんだから脳みそってヤツはすごい。


 ここまで夢中で走ってきたから、こうして世界を噛みしめる余裕なんてなかった。でももはや周りに人の気配はしないし、物音もしない。きっと追っ手の連中は捜索を諦めたのだろう。


 良くも悪くも俺のような奴隷は消耗品。過労死したヤツと同様に、減ったら新たに補充すればいい。事ここに至ったらその方が早いし楽だ。ヤツらにとって俺なんかはその程度の存在なのだ。


 そもそもこんな豪雨の打ち付ける暗闇の中では、連れ戻すメリットよりもアクシデントに遭遇するデメリットの方が大きい。つまりもう誰も追ってこないに違いない。


「へ……へへ……。やった……ついに逃げ切った……。俺は自由だ……。あははははーっ!」


 思わず笑みが零れる。とうとうアイツらを出し抜いてやった。心の底から喜びがこみ上げてきて興奮が止まらない。


 あぁ、俺は一世一代の賭けに勝ったんだ。もうどこへ行って何をしようと、それを妨げる者はいない。


 もちろん、これからひとりで生活していかなければならないが、今までずっとあのクソみたいな鉱山で生きてきたんだ。あれほど酷い環境なんて、そうそうないはず。それを思えば大抵の困難は乗り越えていける気がする。


 しかも散々こき使われてきたおかげで、筋力もすばしっこさも根性も粘り強さもついた。生ぬるい環境で暮らしてきた町の連中とはワケが違う。どんなことをしたって生き抜いてみせる。


「――さて、どこへ行くか。まずは大きな港湾都市にでも行って、ほとぼりが冷めるまで身を隠すか?」






「お前の行き先は最初から決まっている。あの世だ」






「ッ!?」


 不意に俺の眼前に白刃の先端が突きつけられた。いつの間にか誰かが死角に立っている。


 ……くそ、全く気配を感じなかった。不覚。俺としたことが浮かれ過ぎて油断した。


 起き上がろうにも、こうして刃物を突き立てられている状態ではそれもかなわない。下手に動けば声の主の言う通り、あの世へ旅立つことになる。


 すでに生殺与奪を握られているとあらためて認識し、俺は思わず唾を飲み込んだ。


 程なくその声の主は切っ先を俺に向けたまま、視界に入る位置へゆっくりと移動してくる。


 それは見覚えのある中年の男。いつも俺たち奴隷を監視しているヤツのひとりだ。


 しかも気がつけば、周りには灯りを持った若手の男や捜索に加わっていたと思われる目つきの悪い男の姿もある。つまり複数の追っ手たちにすっかり囲まれてしまっているということだ。


 もし運良く逃げ出せたとしても、俺には走るための体力が残っていない。あと数十分くらい休めていれば、少しは回復したかもしれないが……。



 ――あぁ、終わった。目の前には絶望しかない。



 全身から力が抜け、呆然としてしまう。もう何も考えられない。考える気力すら湧かない。悔しさだけがこみ上げてくる。


「ちく……しょぅ……あと一歩……だったのに……」


「残念だったな、小僧。俺たちの本職は盗賊なんだ。追跡や忍び足なんて朝飯前。あちこちに逃亡者の位置を知らせるワナも仕掛けてある。たまーにお前のような不届き者が出るんでな、ククク」


「う……ぐ……」


 俺は奥歯を噛みしめた。


 相手の方が何枚も上だったこと、自分自身の見通しの甘さと力のなさ、不条理な運命ばかり突きつける神への怒り――。自然と湧き上がってきた涙が泥まみれの頬を伝っていく。


 そんな情けない俺の姿を見て、監視役の男たちはニタニタと蔑むように笑っている。


「逃亡者がどうなるか、分かっているよな? ――おらぁっ!」


「がはっ!」



 …………。


 一瞬、目の前が暗くなって意識が飛びそうになった。辛うじてそれに耐えたあと、刹那の時間差で衝撃と痛みが腹を稲妻のように突き抜けていく。


 うまく息が……出来ない…………。


 監視役の男がその図太い足を俺の腹へ思い切り落としてきやがった。しかもカカトの部分が鳩尾に当たるように。生かさず殺さず、最大限のダメージを与える力加減。さすが苦痛の与え方をよく知ってやがる。


 俺はせめてもの抵抗として、監視役の男を呪い殺すくらいの念を込めて睨み付けた。もちろん、そんなことをしたところで屁の突っ張りにもならないことくらいは分かってる。


 でもこんなゲス野郎に、心だけは死んでも屈したくないんだ! 屈するもんか!


「その生意気な目、いいねぇ。それが徐々に光を失っていくところを見るのが、俺は大好きなんだ。簡単に死ねると思うなよ? クソガキ!」


「ぐぼはぁっ! あ……は……が……」


 監視役の男は全身のあらゆるところへ蹴りを入れてきた。


 何度も何度も何度も何度も……。


 普通の人間なら死んでしまってもおかしくないと感じるくらいに。でも俺は未だに意識を失わないまま、苦痛を感じ続けている。


 ずっと数え切れないほど痛めつけられてきたから、ダメージを受け流すように体が無意識のうちに動いてしまっているのだろう。その上、奴隷生活に耐えられたくらいに体が丈夫だ。それらが俺の不幸を増大させている。


 口の中には血の味が広がり、体は裸で吹雪の中にいるかのように寒い。


「さて、そろそろ楽にしてやるか。見せしめとして、ほかの奴隷どもには首を晒してやることにしよう」


 俺の頬に刀身が軽く当てられた。かすかな切り傷から血が滲み、肌を伝う。


 監視役の男はさらに刀身の平らな部分でペチペチと軽く叩いてきて、ほのかに鉄と油の臭いが漂ってくる。金属の冷たさに関しては、体の痛みによって打ち消されてしまっているのか、それとも感覚が麻痺してしまっているのか、全く感じ取れない。


 あぁ、もはやこれまで。事ここに至っては、じたばたしない。そんなことをしても惨めなだけだ。


 俺は覚悟を決め、静かに目を閉じてその瞬間を待つ。






「……待て」


 不意に聞いたことのない声がした。


 それは低音で威厳が漂う感じ。響き具合から推測すると、少し距離が離れているのだろう。そして程なく、落ち葉を踏みしめる音が徐々に大きくなってくる。つまり誰かがこちらへ近寄ってきているということだ。


「あっ、兄貴っ!?」


 監視役の男の驚愕したような叫び声がした。しかも兄貴と呼んだとうことは、こいつらよりも立場が上の人間ということか……?


 俺はゆっくりと目蓋を開け、横目で様子をうかがうことにする。


 すると監視役の男のすぐ横に三十代半ばくらいの屈強な男が立っていた。露出した腕は隆々とした筋肉が脈動し、体格はこの場にいる誰よりも一回り大きい。また、鋭い目つきというわけではないが、表情には威厳と自信に満ちたような気配が漂っている。


 なんだろう、この懐が深そうでいて熱い激情を内に秘めているようなオーラは……。


 その存在感だけで場の空気を完全に掌握している。明らかに監視役の男たちとは格が違うって、本能的に分かる。


「兄貴、いらっしゃってたんで?」


 監視役の男は自分よりも年下であろう『兄貴』にヘラヘラと媚びるような笑みを浮かべていた。やけに腰も低くて、気を使っているのが傍目にも分かる。ほかのふたりなんか恐縮しまくって、隅で小さくなっている。


 いつもなら奴隷のみんなが、ムチを持った監視役の男へ向けている瞳。恐怖と怯えに満ちた力のない瞳。今、監視役の男たちが浮かべている瞳はそれとよく似ていた。


 怖いものなしのように見えたあいつらでも、あんな顔をするのだなと俺は少し驚愕する。


 つまりこの『兄貴』はそれだけ畏怖の対象だということ。その理由が腕力なのか立場なのか、あるいは別の何かか――詳しいことは分からないが。


「たまたまお頭に用事があってな。それが済んで帰ろうと思っていた時に、この騒ぎを聞きつけたのさ」


「そうでしたか。でもわざわざ兄貴が奴隷のクソガキの捜索なんかなさらなくても、あっしらだけで――」


「お前ら、このガキを殺そうとしていただろう? そうじゃないかと思って止めに来たのさ」


「そ、それはどういうことで?」


「ガキのいた環境を確認したんだがな、なかなかどうして盗賊としての筋がいい。施錠されていたドアのカギ開け、足かせ外し、簡単なトラップすら解除していた。自力ではどうにもならない障害は、徹底的に避ける選択をしている。いいセンスしてやがる」


「錠前に不具合はなかったはずなんですが……」


「――そこだ! もしそんなミスをしようものなら、監視をしていたお前らがお頭から大目玉を食う。だからしっかりとチェックをしているはずだ。事実、俺もさっき確認をしたがどれも不具合なんてなかった。つまりこれはどういうことか? 簡単さ、ガキが自分の技能スキルで外したってことなんだよ」


 兄貴はこちらへ振り返り、ニヤッと頬を緩めた。そして俺の顔の横まで歩み寄ると、しゃがんで興味深げに覗きこんでくる。


「おい、クソガキ。どこで盗賊シーフ技能スキルを身につけた?」


「…………」


 答える義理はない。こいつだって監視役の男たちと同じ穴のムジナなんだから。


 せめてもの抵抗として、唾でも吐きかけてやろうかと思った。例え体は動かせなくても、この距離ならそれは充分に可能だ。


 でもいざこの男の顔を見ると、不思議と反抗するのを思い留まってしまっている。


 一時的とはいえ、殺されかけたところを助けてくれたという事実があったからか? 自分でもよく分からないが、なんとなく気が退けるというか……。


 それにこの男は純粋な好奇心だけで訊いているような感じがする。まるで無邪気な子どもみたいに瞳をキラキラと輝かせていて、何か裏がある様子はない。しかも監視役の男たちに向けていた威圧感が今は全くなく、同じ人物なのかと疑ってしまうほどでもある。


 その姿を見ていると反抗心が自然と緩んで、俺はついつい口を開いてしまう。


「……お前らがやっているのを見よう見まねで。あとは出来るまで何度も試行錯誤をして習得した。死に物狂いでな。逃亡に失敗すれば殺されると分かっているからな」


「ほぉ、自己流でここまでか。大したもんだ。やはり俺の目に狂いはなかったようだな。このガキをくれってお頭に頼み込んで、許可をもらったかいがあったってもんだ」


「兄貴がこのガキをっ!?」


 監視役の男は素っ頓狂な声をあげた。ほかの連中も同様の反応だ。


 すると『兄貴』は確信に満ちたような顔をして小さく頷く。


「このガキには盗賊としての天賦の才がある。鉱山から逃げ出した行動力と度胸、逃げ足、身のこなしもいい。このまま殺してしまうには惜しい逸材だ。それに若い衆も育てておかないと、組織はいずれ衰退するもんだ」


 フフンと満足げに笑う兄貴。そして再び俺の方に向き直る。


「俺は港湾都市フォルスの盗賊シーフギルドを任されているダルフだ。お前の名前は?」


「……バラッタ」


「そうか、バラッタか。お前は今から俺の直属の部下だ。喜べ、幹部候補生だぞ? しっかり励めよ」


「な、何を言って……」


 怒濤の展開に俺は戸惑いを隠せなかった。


 いきなり部下になれと言われても、どうしていいのか分からない。どう反応すればいいのかも分からない。こいつの部下になることが幸せなことなのか不幸なことなのか、今の段階では判断もつかない。


 ただ、この場で殺されるということがなくなったのは確かなようだが……。


「一緒に来いッ! 広い世界を見せてやる! 異論は認めん!」


「……っ! いつか寝首をかいてやるぞ? 俺を野放しにしている以上、安心して眠れると思うな! 寝込みを襲って心臓にナイフを突き立ててやる……!」


「威勢がいいな。まっ、若いうちはそれくらいの野心がねぇとな。ますます気に入ったぜ。はっはっはっはっはーっ!!」


 ダルフは雨音さえもかき消すような大声で笑った。


 俺の敵意も殺意も全く意に介していない。それだけ余裕があるのか、そもそもガキの戯れ言だと高を括っているのか。真意が分からず、俺は当惑するばかり……。


 ただ、何の根拠もないが、この瞬間に俺の運命が大きく変わったような気がするのはなぜだろう。




 ――七年前、これが俺とお頭の出会いだった。



(つづく……)

 

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