十一之三 木花帆満帆

 源内の見込みどおり、それから半刻程すると、雨風が少し穏やかになった。俺と源内、アサルは潮見の間でずぶ濡れの顔を見合わせて笑い合った。波はまだ高いが、風が収まれば波も次第に低くなるはず。海は風に押されて荒れるものだからだ。


 しかしそんな俺達を嘲笑うかのように、天色てんしょくはすぐにまた荒れ始めた。俺達は長い間戦ったが一進一退、ついには夜を迎えた。


 この嵐は長い。月も星も見えない黒い黒。ただ稲光がそこここに落ち、その刹那せつなだけ、皆の顔が闇に浮かぶだけだ。揺れと雨で、灯りなどともせるはずもなし。冥府めいふ夜闇よるやみが全てをべる嵐は、沖乗りに慣れた船人にとってさえも嫌なものだ。ましてこの強さでは。


 冬でないだけ、まだましだ――。そう思い込む事にした。冬の夜の嵐ほど恐ろしいものはない。かじかんで帆や舵を操るのが難しく、うまく体が動かないため、海に転がり落ちる者が多く出る。それどころか、寒さで死ぬる者すら。だからこれはまだいいほうだと、心で強がった。


 しかしその実、これほどの嵐に向かい合った試しはない。しかも夜になり、大嵐はますます力を強めている。雨は四方から強く船人ふなびと甲板こういたを叩き、声も聞こえないほど風が轟々と咆哮を上げて渦巻いた。うねりが強くなり、さしもの神木船といえども軋み音を大きく立て、激しく波間で揺られた。上に下にと、いいように弄ばれている。


 あまりに風が強くなったので、先帆もすでに半ばほど畳ませ、船の向きをわずかに保てるだけにさせている。なにしろ逆浪さかなみの動きが大きくなっている。これまでよりずっと心を砕き、舳先を常に波頭なみがしらの真向かいに正しく向けていなければ、危うい。


 情け無用のこの大嵐と戦い始めて、すでに半日より経っている。嵐を押さえ込み沈まぬよう算段するのに、俺も船人も、全ての力と心得を注ぎ込んだ。皆疲れ果てているはずだが、気も体も休める訳にはいかない。そうなれば船は沈んで、皆が死ぬ。


「もう駄目だ。かじがあっ、折れるうっ」


 凄まじい形相で、夜儀が叫んだ。


 船人として腕の限りを尽くし、襲い掛かる流れと、全ての力で斬り結んできたのだ。普段の人を食った笑顔はとうに消え、眼尻まなじりを吊り上げている。


 その顔を、雨とも波しぶきともわからぬ水が洗う。船の動きに伴い、ともからは大きな波浪が立っている。共に舵棒を握る大綿の大きな体は激しく揺れ、今にも横倒しにされそうだ。


「舵を上げろおっ」


 すぐさま命じる。夜儀ほどの者が言うのなら、これ以上舵を下ろしておくのは危うい。舵が折れても帆さえあればなんとか進めはするだろうが、後々、向かい風や難しい潮の流れのとき、著しく船の操りが難しくなる。


 大声で気合いを入れ、潮に押され重くなった舵を、夜儀と大綿が水から引き上げた。全ての力を注ぎ込み引き上げたので、荒い息をしている。津見彦が、舵が動かぬように甲板に固め綱で縛り、星辰櫓の俺に身振りで伝えてきた。


 舵が上げられたため、木花は次第に向きの操りを失っていった。波頭にまっすぐ向けていた舳先がゆっくりずれてゆき、右の舷側が横波を受け始めた。まだ半ば張っている先帆が横風を受け、大きく船が傾き出す。


「先帆を畳めえっ」


 矢継ぎ早に命じた。筈緒はずお帆綱ほづなを使い、写楽が帆を畳む。


 しかし全ての帆を畳んでも、船はゆっくり大きな巡りで揺れるばかり。しかもそれがどんどん大きくなる。辺境船へんきょうぶねの波路に慣れた船人と言えども、もはや立っているのが難しいくらいだ。


「帆柱だっ」


 星辰櫓の下まで駆け込んできた写楽が叫んだ。恐れに目を見開きながら。その叫びを、轟く雷鳴が掻き消した。


「一の帆の帆柱を倒さないと、横倒しになって皆死ぬるぞっ」


 一の帆の帆柱は大きいので、風から受ける力も強い。しかも船で一番上まで伸びている。それだけに風が強過ぎると、船を大きく押してしまう。凄まじい嵐で舵も帆も畳むか失った船は、ただ波に揺れる木の葉も同じとなる。いずれは横の大波に飲まれて腹を見せてしまうだろう。


 廻船では、嵐で船がいよいよ覆りそうになると、積荷を海に捨てる打ち荷で身を軽くし、逃れる術がある。それでも駄目となると、帆柱を落とす。帆柱を打ち倒すのは、末期まつごだけに許された禁じ手なのだ。


 帆柱を打ち倒せば、沈む恐れを少しは下げられる。ただし、それにより無事嵐を乗り切ったとしても、実はその後がまた恐ろしい。帆を失った船は思うままに進めることがかなわず潮に流されるだけとなり、どこか陸に運良く吹き流されるよう、天に祈るしかなくなるからだ。


 幸い木花には帆柱が三本ある。一の帆の帆柱を失うだけであれば、まだなんとかなるだろう。ただし進みが著しく遅くなるので、五年と切られた約束の時までに扶桑に戻れるか、極めて怪しくなる。


 弁財船べざいぶねなどと異なり甲板こういたを持つ木花では、打ち荷は使えない。船が沈む間際まで行けば、帆柱を打ち倒して少しでも風のあおりを和らげるしか、残された手がない。


 激しく揺れる星辰櫓に上がって来た源内は、俺の隣で手すりにしっかりしがみつき、帆柱を睨んだ。眼鏡には雨粒が止まず流れている。


「信じられん。あれ程太い一の帆が、風にしなっておる」


 妙に落ち着いた口ぶりだ。


「……たしかに帆柱を打ち倒すしかないようだ。どうせなら、死ぬ前に南蛮河豚を食べておけばよかった。アサルが言うようにのう……。アサルと猫にも味わわせてやったものを。……どのような味であろうか。書付に残したいものじゃて」


 嘆いている。


「慌てるな源内。まだ木花帆このはなほがある」


 舵も帆も畳んだため船人は皆、星辰櫓とまわりに集っている。その顔々が俺を見つめた。


「木花帆を掲げる」


 俺の命に、いち早く夜儀がすっ飛んでいった。


「おほっ。その言を待っておったぞ、陽高よ」


 大綿が豪放に笑い放つ。船人の前というのに、おさと呼ぶのも忘れている。


「あの帆を見るのは何年ぶりだろうか。楽しみだ」


 雨と風で顔が歪むままにさせながら、怒鳴っている。


「大綿、ここは任せた」


 俺が肩を叩くと、喉の奥を見せて笑った。


「任せておけ、長」

「あっ、陽高っ」


 星辰櫓から飛び降りると、ともに向かい駆け出した。背中から、アサルの叫び声が聞こえてくる。もはや川の中のような有様の甲板で幾度も転びながら、俺は木花帆まで進んだ。それを見て、揺れる帆柱にしがみついた夜儀が笑っている。


「いやこれは船長ふなおさ、やはりお歳を召されましたなあ……」

「ほっておけ」


 痛む腰に手を当て息を整えてから、俺は木花帆の帆柱に彫られた印章に向かった。なんとしても船人を助けなくてはならん。この帆を張るのは避けたかったが、ここまで来ては仕方ない。俺は両手で木花咲耶姫このはなさくやのひめの印を結んだ。


「上げろっ」

「待ちかねた」


 帆綱ほづなを、夜儀が強く引いた。木花帆の短い帆柱ですらたわむほどの風の中、帆布が力強く上がってゆく。低い帆桁に固められる、高い音が響いた。帆が風を受けて生き生きと膨らむ。……と、帆布が急に黄金こがねに輝き始めた。なにかの光を受けてではない。帆布自らが光を放っているのだ。


「木花……」


 見上げた夜儀が、眩しげに呟いた。月も見えない漆黒の夜に、輝く帆の光を受け、ずぶ濡れの顔が甲板に浮かび上がっている。


 輝く帆布は、実りの稲穂が一面に続く大地のようだ。木花咲耶姫の秘紋が大きく描かれている。その下には姫を称える真言が、瑠雲るうん文字で野太く、黒々と書き記されていた。


 胸が強く痛んだ。眩暈めまいがして倒れそうになる。体の中が焼けるように熱い。俺は奥歯を噛み締めた。


「後は……頼む」


 かすれがちな声でそれだけ告げる。力強く頷く夜儀を残し、よたよたと星辰櫓に戻った。


「苦しいか、陽高」


 大綿が、俺の目を覗き込んできた。


「いつも……の事……だ」

「そうか……」


 俺の肩を軽く叩く。


「あれが……。あれが『はじまりの帆』……」


 写楽が呟いた。黒より深い漆黒に全てが包まれる冥府の闇に、向日葵色ひまわりいろの帆だけが、命の力を放つように息吹いている。


「まるで……真夏の陽」

「何度見ても心強いのう」


 潮見の間の窓にしがみついたまま、源内が叫んだ。


「いつの日か、あの密か事を調べたいものよ。木花帆を張ると、海に張り出す竜骨りゅうこつも応じて狐火のような不思議の光を発し、海の中から船を安らかにするという。見てみたいが、嵐の海に飛び込めば、死ぬるであろうなあ……」


 源内の眼鏡には帆の閃きが映り、次々に叩き付けられる雨粒が飛沫を上げていた。夜というのに猛々しく光を放つ帆を目の当たりにして、アサルはただただぼうと口を開けている。



■注

筈緒はずお 帆の向きをコントロールするための引き綱

とも 船尾

逆浪さかなみ 激しく逆巻く波

末期まつご 最後

真言しんごん この場合、仙術呪文の意

瑠雲るうん文字 古代ゲルマン民族の文字

竜骨りゅうこつ 船首から船尾まで船底を縦に走る、最重要の強度部材。英語ではキール

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