第30話
「なんだ。この惨状は……」
蓬は言葉を失くしてしまう。人々が見守っていた先では横転した馬車と、その馬車周辺を調べる警察官の姿があった。
馬車の近くには地面が吸ったと思しき、赤黒い染みが広がっていた。馬車に轢かれた者が流したものだろうか。そんな鉄のような臭いを放つ赤黒い地面を見た蓬は、その場で凍り付いたように固まってしまう。
赤黒い染みの周りには、同じく赤く染まった米粒が無数に散乱しており、少し離れたところでは壊れた竹筒が転がっていた。その竹筒から零れた液体が地面を流れ、味噌と酒が入り交ざった臭いを辺りに漂わせていたのであった。
そして肝心のセイの気配は、その地面を染め上げた赤黒い染みに続いていたのであった。
(まさか……!?)
指先が震えだして、身体から血の気が引く。喉の奥で焼けつくような苦い味がして、胸が早鐘を打ち始める。落ち着こうと息を吸ったものの、警察官に事情を聞かれていた商売人らしき男が急に金切り声を上げたので、蓬は飛び上がりそうになったのだった。
「おらぁ、見たんだよ。あの華族が乗っていた馬車に轢かれそうになりやがった餓鬼を助けようと、学生が馬車の前に飛び出したんだぁ。竹皮の包みと竹筒を持っていた、あの、なんとかっていう有名な大学に通ってやがる神社の末息子だ」
神社の末息子、という言葉にハッと息を呑む。人間より優れているはずの神らしくもなく、恐怖で足が震え始める。
信じたくなかったが、まさか、まさか――。
「それで?」
「餓鬼は通りの反対側に転がって無事だったが、学生は馬車に轢かれてな。地面に倒れたんだぜ。 ほら、あの赤い地面のあたり。持っていた包みも地面に落ちた。米粒が散らばって、竹筒も穴が開いてあの通り。学生はぴくりとも動かなかったぜ。おらが近くの医者を呼んで診てもらったが、もう……」
商売人はまだ警察官と話していたが、蓬の耳には何も入ってこなかった。手足から力が抜けると、そのまま倒れそうになったので慌てて上空に飛び上がる。両手で自分の頭を乱暴に掻き交ぜ、そして顔を覆う。認めたくない事実を突き付けられて、思考が停止する。
「なんて、ことだ……」
最悪の結末を迎えてしまった。蓬の我が儘に付き合わせたことで、セイは名前と姿を失った不完全な状態で最期を迎えてしまった。
セイに会うことはおろか、もう名前と姿を返すことさえ叶わない。肉体と魂が解離した以上、セイの意識が宿った魂は蓬の元から離れてしまった。蓬には魂となったセイを追いかけられない。神力をほとんど失った蓬には……。
神に名前を知られて使役された魂が死を迎えた場合、その魂は真名が欠けた不完全な状態となる。不完全な状態では輪廻転生の輪に入れず、転生はおろか成仏さえ叶わない。神に貸した名前を返され、自分を縛る神――セイの場合は蓬から解放されるまで、永遠に地上を彷徨い続けることになる。
誰とも言葉を交わせず、存在さえ認識されず、人の移り変わりと共に遠からず存在を忘れ去られる。そんな地獄ともいうべき、終わりなき日々を永劫に送らなければならない。
魂だけの状態を何十年、何百年と送る内に、やがて人間らしい感情や思考を失ってしまう。自分が何者であったのか、どの神にどんな名前を奪われたのかも忘れ、ただ地上を放浪する亡霊となる。その後ほどなくして満たされない渇きを覚えるようになると、衝動のまま人を襲う怨霊に成り果てる。飢えた獣のように暴れ、調伏されるまで飢渇にもがき苦しむという。
陰陽師や退魔師によって、強制的に祓うこともできるが、邪気と共に祓われた魂は完全に消滅する。二度と転生できず、何も無い深淵に堕ちる。
そうなる前に神は自らが使役する魂を解放しなければならない。地上を流離う魂を見つけ、名前を返して自由にしなければならなかった。
蓬に神力があれば、すぐにセイの魂を見つけられるだろう。しかしセイがいない以上、蓬の神力が回復することはない。セイが作る神饌でなければ、蓬の神力は回復しないのだから。
神力が無い以上、セイを見つけられない。神である蓬が見つけられないのなら、セイを解放することは――不可能である。
心ここにあらずといったまま事故現場を離れると、蓬はセイの生家である神社にやって来る。夢であって欲しいという一縷の望みにかけて来たものの、待ち受けていたのは残酷な現実であった。セイの訃報を聞いたのか、セイの知り合いや宮司の関係者と思しき、黒い服の集団が続々と神社に続く石段を上っていた。神社の社務所の前では、黒い着物を身に纏ったセイとよく似た女性――セイの母親が弔問客と涙交じりに話していたのであった。
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