「映見!」

 ベッドの傍に駆け寄り僕は何度も彼女の名を呼んだ。

「無駄だ、透」

「でも、映見は今、声を出した」

不随意ふずいいの基礎的な反射による喉音こうおんだ。意識があってやってることじゃない」

「映見を助けてくれ」

 僕は神野にすがる目を向けた。

「一年前透が映見を救おうと血迷って電車に飛び込もうとしたとき、俺はそれを阻止した。本気で困っているお前を助けようとして望み通り映見を生きながらえさせたんだ。その時の代償としてお前は記憶を失った」

「こんな状態は助けたなんていわない」

 取り乱す僕に神野は冷静に言った。

「『猿の手』の話をしただろ。それで願いは叶うけど、それが必ずしも思うように叶わないこと。お金が欲しいといえば、身内の誰かが死んで保険金が入ってくるようなもんだ。必ず負の面と背中合わせだ。ひとつのことを得るためにそれと同じくらいの代価を払う。映見の場合も心臓は動いている。だが意識がない。俺は死神だからこれが精一杯だったんだ。本来死神は命を奪うのが仕事だからね」

 僕の事を助けようと一生懸命に頑張ってくれたことくらい、ずっと一緒に過ごしてきたんだから嘘ではないことくらいわかっている。でも僕は複雑でこの状況を素直に受けいれられない。

 僕は虚しく映見を見つめた。

 かつて笑っていたあのまぶしい笑顔はそこにはない。生きているのに、映見の意思がない。それなら、映見は今どこにいるというのだろう。

「映見、戻って来い。映見はいつもしつこくて決して諦めなかっただろ。本当は僕がここにいるのを知っていて、わざとそんな態度をとっているだけだろ。映見、映見、お願いだ。僕の名前を呼んでくれ」

 どんなに僕が声を掛けても、映見からの反応はなかった。

「映見の両親も妹もずっと同じ事を繰り返してきた。彼らはお前と同じ思いをお前以上に味わってきた」

 神野が後ろで諭すように僕にいう。

 想子の言っていた言葉が思い出された。

『やっとお姉ちゃんの死と向き合えるようになった……』

 その言葉の重みに僕は胸が張り裂けそうになっていた。今僕が受けている衝撃と悲しみをこの一年間ずっと抱いてきたのだ。

 簡単に映見の死と向き合えるなんて本当は出来きることじゃない。もしかしたら明日目覚めるかもしれない希望を常に抱いていたはずだ。でもそこには同時に死が訪れるかもしれない不安もあった。

 救いようがないと人は悲惨に思うかもしれない。でも想子は全てを受けいれようと必死に頑張っている。思うように行かない事が起こったとき、嘆き悲しんでばかりではいられないと想子は覚悟を決めた。

 僕はどうしたらいいのだろう。思い出した記憶にしばし耽る。

 映見チャレンジで僕に写真を撮らせた理由。そこには手術に立ち向かおうとする思いがあった。ゲームをすることで笑って怖さを吹き飛ばしたかったんだ。

 僕がカメラを向けると必ず笑っていた映見。

 なぜそんなに笑えるのか。それは柴太君が笑うことと一緒だといっていた。


『この犬は私が大好きなんです。私がカメラを向けると笑うんですよ』


 あの時の言葉は僕に向けたメッセージだった。それに気がついていたはずだったのに、僕は臆病で逃げていた。

 あの言葉は今の僕にはこう聞こえる。


『私は透が大好き。透がカメラを向けると笑うの』


 僕はカメラを構える。

「映見、ずっと頑張ってきたんだね。僕はゲーム最後の日、逃げてしまった。本当にごめん。本気を出して勝負に挑まなかった僕を許してほしい。こんな状態で写真を撮るのは心苦しいけど、最後の一枚を撮るよ。これで映見は僕から解放されるんだ」

 カメラのファインダーを覗き、僕はシャッターに指をかけた。フラッシュが光り、その最後の一枚はカメラに収められた。

 これでやっと映見チャレンジが終わった。勝負は僕の勝ちになってしまった。そうだろ、映見。

 僕は神野に振り返る。

「映見を自由にしてやってくれ」

「それは映見自身が決めるよ。その時が来たら俺はちゃんとやるべき事をするだけさ」

 神野は粋がった笑いを向けた。そこに死を扱う慣れたものを感じた。

 僕は横たわる映見を見てただ胸が痛い。でもどうすることもできない思いに歯を食いしばる。ここにいては苦しいだけだった。

 僕は最後のお別れに、映見の頬をそっと撫でた。それは柔らかくとても温かかった。

 そして無理やりドアへと向かった。

「僕はこれから学校に戻るけど、神野はどうする?」

「そうだな、俺はここでお別れだな」

「学校をサボるのか?」

「まあな」

 僕が先に病室を出ようと扉に手を掛けたとき、ふと違和感を抱いて神野を振り返った。

 すでに神野の姿が消えていた。それを最後に神野にその後会うことはなかった。学校で神野の事を聞いても誰一人知るものもいなかった。

 そのうち僕も神野の記憶があやふやになっていく。いつか忘れていく予感を感じた。


 映見はその後、容態が悪くなり命を引き取った。想子がメールですぐに知らせてくれたけど、僕もまたその日に虫の知らせのように不思議とそうなることを予期していた。

 奇しくもその日、昨年の映見チャレンジの最後の日と同じ日付だったからだ。

 想子は最後に会いに来てほしいと言ったけど、映見の葬儀に行くのは遠慮させてもらった。

 映見チャレンジ終了後、映見に気づかれずに最後の一枚を撮った僕の約束どおり、僕たちには接点がなくなったからだ。それは僕が望んだことでもあるし、映見が決めたことでもある。僕はそういう風に捉えていた。

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