第30話 微笑ましい作戦

 翌日。

 そこはロンダリア城間近の廃屋。

 前王の時代には修道院として使われていたが、聖神教団がロンダリアから撤退した後、放棄された家屋だ。

 シリカとヴィルヘルム、衛兵二人にアリーナとクラウスの六人が、思い思いに修道院内部を見渡した。

 両開きの扉を通ると左右に幾つかの長椅子があり、正面奥には神父の説教台が置かれているのみ。

 聖神教団の象徴たる聖神の絵画などの装飾はなくなっている。

 恐らく、放棄の際に教団員たちが回収したのだろう。

 聖ファルムスの大聖堂に比べると何ともお粗末な内観だった。

 シリカが興味深そうに視線を巡らせる中、ヴィルヘルムがいつも通りの鉄面皮のまま口を開いた。


「手入れはされていない。補修と清掃が必要だが、治癒場として使えそうか?」

「ええ! 問題ありません。治癒には寝台があればいいので」


 むしろこれだけの広さがあれば十分だ。

 シリカさえいればどこでも治癒は可能なのだから。


「そうか。では今後はこの修道院を【治癒院】と定め、国民に治癒を行う。アリーナと衛兵二人を従者とするがよい。他にも手伝いの志願者を募ろう」

「それはとてもありがたいのですが、私に何人もつけると大変なのでは……?」

「むしろ少ないくらいだ。先の一件もある。それに新生ロンダリア皇国において、そなたの存在は非常に大きい。そなたには自身の立場を理解してほしい」


 ヴィルヘルムは真剣な顔でシリカの肩を優しく掴んだ。

 包容力と力強さ、それに温かな気持ちがその手から伝わってくるようだった。

 以前の彼では考えられないほど真っすぐな想いだった。

 戸惑いながらもシリカは、心の底に混みあがる喜びを噛みしめていた。

 ロンダリアへ来て、初めてのことばかりだった。

 悲しみや寂しさや心苦しさ、自分の矮小さを感じ、苦しかった時もあった。

 けれど今は、その時間があったからか、小さな喜びでも幸福感を得ることができた。


 ヴィルヘルムは不思議な男性だった。

 冷たいのに優しく、真っすぐなのに歪で、自信がないのに頑固。

 相反する要素がすべて詰まったような男性だった。

 でも今は、少しだけ彼のことがわかった気がする。


(か、肩に陛下の手が……)


 何度も不意に彼に触れたことはあった。

 だがこんなに明確に意識したのは初めてだった。

 彼の触れている箇所だけが熱を帯びているように感じさえした。

 この熱を放したくない。

 そんな思いが、無意識の内に出てしまったのだろう。

 シリカは思わず、肩に乗っているヴィルヘルムの手に触れた。

 だがすぐに我に返ってしまう。

 思わず手を引くシリカだったが、ヴィルヘルムも同様の行動をとった。


「し、失礼いたしました」

「い、いや……気にするな」


 触れた途端に離れてしまう。

 衝動的に手を引いた二人。

 そんな二人の様子を微笑ましく見守るアリーナは、何度も満足そうに頷いた。

 そしてよく状況を理解していない衛兵の若者二人。

 ある意味では混とんとした空間だったが、漂う空気は温かだった。


「と、とにかく必要なことは従者に。何か問題があれば余に言うがよい。気兼ねせず……何時でも良い。余は執務室にいる」

「あ、ありがとうございます。何かあれば……いえ」


 言葉の途中で思い返したように、シリカは頭を振った。

 小さく手をきゅっと握り、唇を引き絞る。


(言うの、言うのよシリカ!)


 言わねば伝わらないと言ったのは自分だ。

 そして今日、自分は攻めに転じると決めていたのだ。

 頬を朱色に染め、何かを逡巡したのち、絞り出すようにシリカは言った。


「……な、何かなくとも、お伺いしてもよろしいでしょうか」


 懇願とも言える口調だった。

 窺うようにヴィルヘルムを見上げるその仕草は、ともすれば可愛い子ぶっているとも見える。

 アリーナが嬉しそうに腰の横でグッと拳を握った。

 どうやらアリーナが吹き込んだことらしい。

 ヴィルヘルムは思わず頭を抱えた。


「へ、陛下? いかがなさいましたか?」


 視線を逸らすヴィルヘルムの顔は僅かに赤く染まっていた。

 だが夫の感情の機微をシリカは察することはできない。

 おろおろとしながら、ヴィルヘルムに近づくのみだった。


「……な、なんでもない。き、急な執務がない時ならば、いつでも歓迎しよう」


 シリカはパアッと笑顔を咲かせる。

 あまりにわかりやすい反応に、そこにいる誰もが笑顔を浮かべた。

 ただしヴィルヘルムだけは非常に小さな笑みだったが。


「では、余は執務に戻る…………また後で」

「ええ! また後で!」


 外で待っていた他の衛兵たちと共に立ち去るヴィルヘルムの後ろ姿を、シリカは恋する乙女のように見つめていた。

 ぽーっとしてしまうも、数秒後に我に返る。

 不意にアリーナと目があった。

 アリーナはほくほく顔で満面の笑みを浮かべていた。

 対してシリカは切羽詰まったような顔をしている。


「わ、私、変じゃなかったですか?」

「いいえ! まったくもって問題なく! とても円滑に陛下と会話できていたと思います!」

「そ、そうでしょうか……け、けれどやはりお手に触れるなんていささか過ぎた行為だったのではないかと……ほぼ無意識でしたが」

「まったく問題ないですよ! 陛下の反応は上々でしたから! 自信をお持ちになってください! なんていうかとってもご馳走様……いえ、いい感じでしたよ、ええ! シリカ様は自然体で、いつも通り、心の赴くままに従うのが陛下に一番効きます!!」

「そ、そう? よくわからないけれど」

「ええ! 間違いなく!」


 大きく何度も頷くアリーナを見て、シリカは少しだけ平静を取り戻した。

 シリカもうんうんと頷きながら、両手を握る。

 以前とは違い、ヴィルヘルムは心を開いているような気がする。

 少しずつ距離が縮まっているし、この機を逃さず仲良くなろうと、シリカは決意していた。

 ヴィルヘルムの看護や、ロンダリア国に関しての話題、それに聖皇后としての仕事など、最近は常に一緒にいる。


 以前は嫌われているんじゃないかと思い緊張していたが、最近では嫌われてはいないらしい、と思うようになり、今度は別の緊張感が襲ってきていた。

 その理由がシリカにはまだよくわかっていなかった。

 だが、ヴィルヘルムとの仲を深めたいという思いは日に日に大きくなっていった。

 妻なのだから当然のこと。

 だが、その根底にある感情が何なのかシリカはまだ自覚していなかった。

 まあ、傍から見ればまるわかりなのだが。


「と、とにかく作業を始めましょう。まずは清掃をしましょうか。それと治癒台を幾つか用意して――」


 シリカは大聖堂での治癒場を思い出す。

 あれは聖女の儀式的な側面もあり、機能的には不便な部分が多かった。

 もっと国民……いや、治癒を求める世界中の人たちが憩えるようなそんな場にしたい。

 シリカの心は熱く、そして優しく燃えていた。

 今日から、また聖女として働くことができるのだから。

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