第3話 元聖女シリカ

 早朝。

 半ば着の身着のまま、小さい荷物だけを寄越され、シリカは聖神教会を後にした。

 枢機卿直属の聖神教徒たち数人に拘束され、聖神教会の裏庭へと連れていかれる。

 そこには小さな馬車と初老の御者が一人。

 シリカは抵抗することもできずに、強制的に馬車へと押し込まれる。

 十年も住んでいた場所をこんな風に追いやられるとは、夢にも思わなかった。


「二度と戻ってくるんじゃないぞ、元聖女!」

「教会にもう関わるなよ! もしも反故にしたら、わかっているな?」


 昨日までは自分の護衛も担ってくれていた聖神教徒もいたのに。

 しかし今はたった一人だった。

 ああ、これが真実だったのだ。

 そう思うも、誰を恨むでもなく、ただただシリカは悲しんだ。

 たまたま聖女の素質があったから、利用されてしまった。

 他の聖神教徒も内心では蔑んでいたのだろうか。

 侍女も護衛も全員。

 もしもそうならと考えるだけで、胸が痛んだ。

 他愛無い話に花を咲かせることもあったというのに。


 男たちの後ろには聖女補佐官のソフィーが立っていた。

 彼女は何を言うでもなく、そこに佇み、じっとシリカを見ていた。

 その瞳には、いつも通りの厳しさの中に、僅かな別の感情があるように思えた。

 だがシリカに、その感情が何かをくみ取ることはできない。

 疑問を口にすることなく、諦観の面持ちのままソフィーから視線を外した。


 馬車が進み始める。

 別れを惜しむものはおらず、ただ厄介払いされただけだった。

 蹄鉄の音とガラガラと車輪が回る音だけが響く。

 実感がない。

 けれど頭では理解してしまっていた。

 幸せだった日々はもう存在しない。

 幸せになるはずだった未来もまた存在しないのだと。

 薄暗く、ほとんど日が出ていない。

 人気もなく、閑散としている通りを馬車が進む。

 救ってきた数多の人々の笑顔、感謝を述べる顔、幸せそうな姿を思い浮かべてしまう。

 もう二度と、そんな人たちに会うことはないのだろう。


「…………う」


 僅かに漏れた声。

 それを皮切りに、遠くの山々から日の出が見える。

 徐々にそれは姿を現し、車内に日が差した。


「ううっ……」


 シリカは込み上げる声と心の叫びを止められない。

 手やまつ毛が震え、視界は徐々に不明瞭になる。

 ぽつりと落ちた一滴の涙が、二つ三つと足元に落ちていく。


「うああ……ううっ」


 嗚咽が車内に響き渡る。

 しかし無情にも馬車はシリカの唯一の居場所から離れていく。

 積み上げたすべてのものから引きはがされていく。


 シリカは――追放されたのだ。


「うわあああああああああああ!」


 シリカの頭の中はぐちゃぐちゃで、まともに考えられない。

 ただただ悲しかった。

 どうしてどうして、という言葉が駆け巡り、そしてそれはどこに行きつくことなく走り続ける。

 悲哀の中に、憎しみも怒りもなかった。

 けれども涙はとめどなく流れた。


「うあああ……うううっ……うわああああ!」


 感情は止められず、泣き続けた。

 きっとここに戻ることはもうない。

 不必要だと、そう言われたのだから。

 涙は溢れ、頬を濡らし続けた。

 痛みとほとばしる熱が、現実を知らしめてくる。

 その感覚に、シリカは身を委ねることしかできなかった。


   ●〇●〇●〇●〇


 聖女が置かれる土地は、聖ファルムス国における特別行政区である。

 聖ファルムス国にとって、聖神教団は切っても切り離せない関係であり、宗教的、文化的側面から見ても主柱とも言える存在だった。

 教団による価値観や教えだけでなく、特に経済的な効果は――表向きには寄付とされる――聖ファルムス国にとって重要な収益となっている。

 本来であれば猊下、つまり聖ファルムス特別行政区の教皇が元首となるが、現在病床に臥せっている。

 ゆえに現在は最高顧問である枢機卿が多大な権限を有している。


 また聖ファルムス国と聖ファルムス特別行政区においての元首は異なり、聖ファルムスは国王が、聖ファルムス特別行政区では教皇が元首となっている。

 特別行政区は聖ファルムス内に位置しているが、実質的には一国家のような扱いを受けながらも、聖ファルムス国の多大な支援や保護を受ける、特別な地区であると言える。


 そんな聖ファルムス特別行政区において聖女はその象徴であり、聖神教徒に対する施し、治療を行える唯一の人間である。

 しかし聖女自身に実権はほぼ与えられていない。

 そして聖女となる乙女は聖神が決める。

 対象は貴族だけでなく、平民も入るため、時として『教団側が望まぬ選定』が行われることもあった。


 その実例がシリカである。

 先代の聖女たちがどうなったのか具体的に知る者は少ない。

 抽象的に、功徳を積んだのち今もなお聖神様に仕え、幸福な日々を過ごしている、と伝えられているだけだ。

 だが、それは違ったのかもしれない。

 そんなことは今更遅いことだけれど、とシリカは思考を放棄した。


「うえぇ……ううっ! ぐすっ……」


 聖ファルムス特別行政区の聖神教会を出立して数時間。

 涙はいまだに止まらずにいた。

 呆れるほど感情が暴走を続ける中、御者がちらちらと小窓からシリカの様子を見ている。

 しかしシリカは構わず号泣した。

 それはもう見事に泣きじゃくった。

 街道を進み、夜になってもそれは続いた。

 三日三晩。

 就寝と食事以外の時間泣きっぱなしだったのだ。


「ううっ……うえっ……えうっ!」


 顔中液体だらけでそれは酷いありさまだった。

 しかしシリカは泣き止まない。

 そんな様子を見かねたのか、教団側の人間である御者でさえも「大丈夫か?」と声をかけるほどだった。

 それが四日目の夜のことだった。

 馬車を街道沿いに停車させ、二人で焚火を囲んでいる最中だった。


「……だ、大丈夫です……ぐすっ……えうぅっ!」

「お、落ち着け……って言っても無理なんだろうが」


 人の好さそうな初老の男。御者は懐からハンカチを出すと渡してくれた。

 三日間ほぼ知らぬ存ぜぬを何とか通していたのだが、さすがに見かねたのだろう。

 男の境遇や立場はわからないが、敵意はシリカに向けられていない。

 恐らくは中立の人間だろう。

 当の本人であるシリカに、そんなことを考える余裕はない。


 おずおずとハンカチを受け取ると、シリカは涙をぬぐった。

 男はそわそわしながらシリカの表情を窺っていた。

 しかし結局何を言うでもなく、ただ黙して焚火に薪を放り込んだ。

 シリカも何も言わない。

 だがほんの少しだけ人の温かさを感じたおかげか、僅かに落ち着きを取り戻した。

 沈黙が暗闇に漂う。不思議とその空間に気まずさはなかった。

 揺らめく火を見て、シリカは大きくうなずく。


「うん、もう大丈夫」

「だ、大丈夫ってあんた……」


 勢いよく立ち上がるシリカ。

 狼狽したのは御者の方だった。


「散々泣いてすっきりしました! もう大丈夫です!」

「……そ、そうかい」


 御者に詳しい説明はしない。

 そして御者も言及してこない。

 互いに薄い関係。恐らくは旅が終われば二度と会うことのない赤の他人。

 むしろシリカからすれば、御者は相対する立場と言えるかもしれない。

 ただの仕事か、あるいは教団に属する人間なのかさえ知らない。

 だがそんなことはどうだってよかった。

 もうシリカは大丈夫なのだから。


(泣いてるだけじゃ何にも変わらない。だったら前向きにとらえた方がきっといいはず!)


 与えられた絶望は、シリカを屈服させるには役者不足だった。

 孤児の時代から散々辛酸をなめて生きていたのだ。

 今更、孤独になろうが、知らない男に嫁がされようが大したことじゃない。

 大事なのは自分がそこで何をするか、どう思うかなのだ。

 シリカは思い出す。自分の信念を。


「死ななきゃ何とかなる!」


 泣き顔から一転、満面の笑みで空を見上げる。

 それは半ば無理やりだったが、それでもシリカは笑った。

 散々泣いた。だからもう十分だ。

 悲しい時や辛い時には笑おう。そうすればいつか心も前を向く。

 シリカはそうやってずっと生きていた。

 空には満点の星がキラキラと輝いている。

 綺麗だった。

 小さな幸せを一つ見つけられた。

 これだけで少しだけ生きていてよかったと思える。


 僅かな幸福も積み重ねていけば、大きな幸福になる。

 それが人生を楽しむコツなのだとシリカは知っている。

 シリカは不安を強引に押しのけて、期待だけを引っ張り出した。

 ロンダリアとはどういう国なのか。

 ヴィルヘルムという人はどんな方なのか。

 そんな風に思いを馳せる。

 過去は振り返らない。未来を望もう。

 シリカはただ空を見上げ、そして笑みを浮かべ続けた。

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