第4話 道徳

人間は、種の本能に基づく世界観と、言語で構成される文化的世界観という二つの世界を抱えている。丸山圭三郎はこれを「身分け構造」「言分け構造」と呼んだ。この二つの世界は決して統合されることがない。いつも引き裂かれ、傷つき、痛み、悩みながら生きること。それが、言語を持ってしまった 「人間」の宿命なのだ。


動物の世界には、正義も悪もない。動物はただ本能に基づいて行動しているだけだ。欲求に従うこと。それがどれだけ残酷に見えたとしても、それは自然であるに過ぎない。意思が介在することはない。


本能に基づく生理的な欲求と、文化的な次元の欲望とを分けて考えるという人もいる。欲求には正当性があるが、欲望の多くは過剰であると主張 する人達だ。しかし、これは滑稽な話だ。人間には純粋な欲求などもはや無い。すべての欲求は欲望と混ざりあっているのであり、それを区分することなど不可 能な事だ。人間とは本能の壊れた動物、あるいは本能を壊した動物だ。「人間に本能はない。あるのは本能残基だけだ」とも言われる。その通りだろう。睡眠だけは純粋に生理的だなどと思ってはいけない。夢ほど文化が輻輳する空間はない。人間であるということは、文化内存在であるということだ。欲望と欲求の関係 で識別できるのは、生理的な要素を含むか否かという点においてだけなのだが、これすらもかなり難しい問題を孕んでいると言えよう。


貪欲は、昔は大罪とされていた。しかし今では成功の条件であり美徳とすら言われる。巷には、文化も欲望も氾濫している。それに魅力を感じる か否か、あるいは嫌悪感や危機感を感じるか否かは人それぞれだ。言語が過剰であるとするならば、文化も過剰であり、欲望も過剰に違いない。しかし、過剰だ からといって制限できるような性質ものではあるまい。もはや、過剰を受け入れるしかない。節制や質素も立派な欲望だ。禁欲すらも欲望の一種だ。逃げ道な ど、どこにも無い。


人が社会の中で地位を築き、富を貯え、名声を得ようと努力することは正当なことだ。このような欲望は正常なものとして評価されるし、むしろ 必要な欲望と言うべきかもしれない。組織に対して貢献することで評価され、それにふさわしい地位と報酬が与えられる。ここで要求されているのは、どう機能 するかという「道具的な価値」である。人は自らの道具としての価値を高めるために努力し、またその価値を誇りに思う。それはそれで素晴らしい。しかし、そ の価値にだけ目を奪われると、道具としては優秀だが人間味に欠けたつまらない人になってしまう。かっこ良くて金も地位も申し分ないけれども、話ていてまっ たくつまらない人というのもいる。さらに、本人は素晴らしい話をしていると思い込んでいるから大変だ。もっとも「金持ちの戯言は格言になる」という諺もあ るので、こういう話をありがたがる人も少なくないのかもしれない。それはそれで、また頭の痛い話である。


逆に、人間的には実に面白いのだが、組織には馴染まないし、道具としてはさっぱり役に立たないという人もいる。いわゆる社会不適応だ。もち ろん、これは極端な例なのだが、道具としての階段を上がって行くと、世界はどんどんと道具的なものに見えてくる。人間を地位や所得で評価する傾向が強くな る。さらには、人間的なものへの関心が薄れて行く。これが官僚社会の病理と言われるものだ。「とんでもない。今の世の中で最も換金性の高い能力は人格なん ですよ」と反論する人も見かける。この説は本当なのだろうか?


人間は文化内存在であるとともに社会内存在である。その中で人は当然のように役割を担う。それが強い強制力を持つ場合もあるし、自らの意思 にそぐわない場合もある。自由が尊重される時代の中でも、人は多くの部分で縛られている。それは環境と言っても良い。一般的に言えば、環境受容能力が高け れば高いほど、生きるのが上手い。逆に、自由意志を尊重する傾向が強過ぎたり、理想主義的 な傾向が強いと不満も多くなる。しかし、文化も、また社会も人間が作り出すものであり、より良い方向へ変更可能なものだ。であるならば、個人的には環境に 適応する方が幸福かもしれないが、全体の利益を考えるならば、より理性的に自由意志を働かせることの方が重要であるとも言える。意思に基づいて環境を変え る力を人間は持っている。逆に、悪い方向へと変える力も。


社会に対して何もしない、というのも一つの選択であり行為である。何もしないことに対して問われる責任もある。そんな責任などない、という 主張もあるだろう。責任を問われるほどの力は持っていない、と言えるのかもしれない。しかし、道徳とは単に規範を遵守することではない。権威や体制に服従 することでもない。道徳とはまさに市民としての自覚なのであり、これこそが道徳的であるかどうかの境界線である。


残念なことだが、道徳的な人は少数派なのかもしれない。

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