第2話 内と外

組織とか共同体と呼ばれるものは、必ずそこに、内と外を分ける壁を作る。作ることを強く意識する場合もあるし、あまり意識することなく自然に壁が出来る場合もある。家族、学校、会社、趣味のサークル、市町村、国、地域社会、日本社会、国際社会。性格や規模がちがっても、内と外という関係に変わりはない。


共同体は、明示されているか否かは別にして、理念や目的を持ち、特定の価値観を共有する。共同体の内部では秩序を維持するために同質化の圧 力が働く。効率を上げるためにメンバーの役割が示される。適応できない者は、最終的に排除される。それが家族であっても同じである。勘当とか家出とか離婚 だ。


内部の結束を高めるために、もっとも良く用いられる手法が、外部に敵や脅威を想定することだ。これによって、共同体は、より<閉じた>ものとなる。逆に、外部との友好な関係を拡大しようという戦略は<開いた>ものと言えるだろう。


日本は昔から「日本論」や「日本人論」が好きだが、そのような傾向自体が普遍的であるということにすら気がつかない人が多い。そのような 「独自性」にアイデンティティを求めるというのは、普遍的な傾向なのだ。ただ、そのような議論が行き過ぎると、<閉じた>傾向も持つ場合が多いので注意が 必要だ。


ある高名な学者は、自らのヨーロッパでの留学経験をもとに「日本に社会は無い、日本にあるのは社会ではなく世間だけだ。」と述べ、このコン セプトで何冊もの本を書いている。また、ある有名な評論家は「サラリーマンは個人ではない」と言い放った。こういった言説は、そうなんだよなあ、という感 想を持ちやすく、ややもすると納得してしまいそうになるという点で、きわめてたちが悪い。このような言説は、近代が築き上げた良質の部分を侵食し、近代否 定の論理へと容易に転化する。すなわち、民主主義そのものの否定である。発言する側に、そのような想像力が欠如しているのか、あるいは、それこそが意図なのか、については言及しないでおこう。ただ、私たち は言説を評価するに際して、その内容に対して冷静であるだけでなく、その言説によって生じる影響についても、想像力を働かせる必要があるのだろう。


なにも、近代をそして民主主義を絶対視するのでも至高のものと崇めるのでもない。批判される部分も改善すべき部分も大いにあることは認識している。ただ、このような形で近代を否定するのは乱雑に過ぎるのであり、近代の良質の部分は歴史的遺産として大切に継承しなければなるまい。


私たちは今、多くの共同体に属している。その中での貢献が認められれば、賞賛され、より高い地位、あるいはより高い報酬が得られる。あるい は、その貢献は正義と位置づけられるかもしれない。また、その組織が社会的に高い評価を得ていれば、地位や名誉は共同体の内部に留まらないだろう。


ただ、どのような共同体の中にあっても、その内と外に対する十分な観察を忘れてはならない。そしてまた、いかに崇高な理念に基づくものであれ、行き過ぎると反対物に転化してしまうということを知らなければいけない。


国際化された時代を生きる中で、<開いた>戦略が、<閉じた>戦略より優れていることは言うまでもあるまい。そして組織も、また個人も<開 いた>状態を志向したいものだ。内と外の壁を認識しながらも、外に対する眼差しを忘れないこと。それは、外のためだけでなく、内のためでもあるのだ。「情けは人のためならず」の本義でもある。

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