カモン・イン・マイ・キッチン

烏丸千弦

scene 1. So You Want to Be a Rock 'n' Roll Star

 中世のような美しい街並みで観光地として人気のチェコ共和国、プラハ。そのプラハで、世界的な人気を誇るジー・デヴィールというロックバンドのメンバーたちが暮らしている。

 ジー・デヴィールのフロントマン、ヴォーカルのルカとベースのテディが住む、アール・ヌーヴォー様式の建物の一室。夏の強い日差しが照らす外とは違い、ひんやりと快適な温度が保たれたそこには今、食欲をそそる匂いが充満していた。

 白い壁と淡いベージュのカーテン、アルダーの淡い紅褐色とグレーを多用したハイセンスなコーディネートの、贅沢な部屋のなか。大蒜にんにくの匂いを辿るように広いリビングを横切りダイニングテーブルの奥に位置するキッチンに近づくと、ぼこぼことなにかが沸騰する音と、弾むように歌う甘い声が聞こえてきた。

 楽しげに〝 Jambalayaジャンバラヤ (On the Bayou) 〟など口遊くちずさみながら、ルカがキッチンに立っている。

 手に持った庖丁ナイフでとんとんと玉ねぎを微塵切りにしながら、ルカは焜炉ホブにかけている鍋を覗いた。大きく深い鍋の中、ガルシュカ{Galuska}、またはノケドリ{Nokedli}とも呼ばれるダンプリングの一種がたっぷりの湯の中で踊っている。手作り感のあるショートパスタのようなそれを、ルカはスキマーでひとつ掬いあげ、茹で加減をみた。

 焜炉の横には鶏のもも肉とトマト、大蒜、小麦粉、パプリカパウダーにサワークリームなどが並んでいた。その他にもカッティングボードにいくつかのボウルや計量カップなど、ワークトップやシンクに使ったあとらしきものが処狭しと置かれている。充分な広さがあるはずのキッチンは、その所為かなんだか窮屈そうに感じた。

 右へ左へと、スキップするように料理をしているルカの様子を、テディはこっそりと覗いていた。

 その表情は恋人の手料理を楽しみにしているのでも、腹が減って待ちきれないというふうでもなかった。テディが、はぁ……溜息をつくと、スキマーを手にしたルカが気づいてこっちを向いた。

「まだだよテディ。全部できあがるまで覗くなって云っただろ」

「……まだ作るの?」

「まだって、まだスープとサラダを作っただけじゃないか。今これができたら、次はデザートも作るんだぞ。待ってろ」

 ルカがそう云うと、テディはなんともいえない困った表情で振り返り――クロッシュが並ぶダイニングテーブルを見て、うんざりしたように腰に手を当て、項垂れた。





 もともとルカはお坊ちゃん育ちで、自分でやることといえばせいぜい紅茶を淹れる――それも、ティーパックを入れたマグに湯を注ぐだけ――くらいで、家事などほとんどしたことがなかった。

 とはいえ、一緒に暮らしているテディも決してまめなほうではなく、どちらかというと散らかし魔だ。なにもしないわりには綺麗好きなルカが落ちているソックスを拾って洗濯機に放りこんだり、出しっぱなしになっているものを片付けたりする程度で、そこから先は家政婦任せだった。食事は外食やデリバリーばかりで、いろいろある家事のなかでも料理は特に、やろうと考えたことさえないほどだったのだ。

 ところが先日、ルカはふとしたきっかけで、チェコではフレビーチェク〔Chlebíček〕と呼ばれるカナッペ風のオープンサンドウィッチを作ってみた。すると、それほど難しくはなかったとはいえ思いの外いい出来で、評判もよかった。

 そして――ルカはすっかりになってしまった。

 テディも、ルカはやらないだけでやればなんでもできるんだ、本当に美味しいと褒めた。心から素直な気持ちで、確かに褒めた。

 しかしルカが、まさかここまで調子に乗るとは、想像もしていなかった。

 面倒臭がりな反面、勤勉で生真面目なルカは、まず子供の頃に暮らしていたハンガリーの料理を作ろうと、レシピ本を買い揃えた。他にもテディの好きな中華料理チャイニーズと、ツアーで行った先で食べ、美味しかった日本料理のレシピ本までわざわざ注文して取り寄せた。

 この時点ではまだ、テディはやっとルカもその気になったんだなと喜んでいた。だがルカがプロのシェフが使うような立派な鍋や調理器具、ありとあらゆる調味料、なにに使うのかわからないクッキング用のブロウトーチまで揃えるに至ると、どうも思っていた展開じゃないぞと首を捻り始めた。

 しかもそれだけでは飽き足らず、ルカはまだまともな料理を一度も作らないうちからモーゼルのグラスと、ヴィンテージのノリタケをフルセットで購入した。

 ――このフラットに越してくるとき、かけ声だけだった自炊のために一通りのものは揃えてあったはずなのに、どうして新たにそんなものまで買わなきゃいけないのだろう? 

 いろいろ疑問に思うことはあったが、テディはルカがせっかくキッチンに立つ気になったのだから余計なことは云うまいと、呆れながらも傍観していたのだった。



 そして、ある日のこと。

 料理を始める準備にようやく満足したらしいルカは、次に食材を買いに出かけると云って――手ぶらで帰ってきた。買い物はどうしたの? とテディが尋ねると、それを合図にしたかのように誰かの来訪を知らせるブザーが鳴った。

 テディはドアを開け、目を丸くした。そこにはたくさんの発泡スチロールのケースと、ダンボール箱が積まれていた。そしてその向こうには、見知らぬ若者がにこにこと愛想のいい笑みを浮かべて立っていた。

 ライムグリーンのシャツにカーキのベスト――その恰好には見覚えがあった。シャツの肩口にあるロゴを見ると、やはりテディも行ったことのあるスーパーマーケットの店員らしい。積まれた箱を指し、これはいったいなにかとテディが尋ねようとしたとき、背後から「ああ、ごくろうさん」とルカの声がした。

 箱の中身はルカが購入した食材だった。段ボール箱は持ち手の部分から瑞々しい黄緑色と赤い色が覗いていて、野菜なのだとわかった。エントランスに運びこまれた発泡スチロールのほうをひとつ開けてみると、中には肉やソーセージ、チーズなどがスーパーマーケットの袋に入れた状態で詰められていた。

「お店、偶に行くけど配達もしてたの? 知らなかった」

 テディがそう云うと、若者はこう答えた。

「いやあ、本当はレストランとか、業者さんじゃないと配達はしないんですけどね。ルカ・ブランドンさんみたいなセレブなスターに頼まれちゃ断れませんよ!」

 大量の食材を受け取ると『セレブなスター』であるルカは、その若者がぽかんと十秒ほど口を開けたままになるほどのチップを渡した。

 そして、何事もなかったかのようにこう付け加えた。「ああ、ついでにキッチンまで運んで片付けるのを手伝ってくれ」

 それを聞いて、テディは思った――相場など無視して湯水の如く金を遣い、当然のことのように無理が通せるのは『セレブなスター』だからなのか。それとも、こういう性格だからそうなれたのか、どっちだろう。

 テディはゆるゆると首を横に振るとすぅっと表情を消し去り、喧嘩したときのみ使うゲスト用の寝室へと姿を消した。









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※ { }のついたルビ・・・ハンガリー語、ハンガリー料理。

  〔 〕のついたルビ・・・チェコ語、チェコ料理。

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