空を駆ける

霜月かつろう

第1話

 冷たい空気は夏の暖かい空気に比べてどうしても硬いイメージが付きまとう。空間の位置座標に定着してしまっているかのようなそのイメージは自分が動き続けられる以上、ただのイメージでしかない。

 それでも誰もいないだだっ広い楕円形のアイススケートリンクを端から眺めていると空気は固まったまま時を刻むのを忘れてしまったかのように見える。


 館山たてやま巧樹こうきはその固まりきった空気をかき回すのが好きだったりする。


 一歩、スケートリンクへと足を踏み入れると、それだけで冷たい空気は巧樹の身体に沿うように全身を包み込みながら後方へと流れる。手袋を含め全身に防寒対策をしているので、それが苦痛とは感じない。それでも皮膚が出ている……特に顔周りからは体温が奪われていくのを感じる。

 本来では恐怖の対象であるそれをを心地よいと思えてしまうくらいにはこの感覚に触れている。氷の悪魔にでも取り憑かれているのだろうと巧樹は常々思っていた。


 それに踏み出しただけでスーッと進み続ける氷の上はいつだって心地よい。朝一番のスケートリンクは朝走った整氷車のガソリンの匂いがまだ漂っていたりする。冷たい空気と混ざり合ったその匂いはここでしか感じることが出来ないもので、それを嗅いでいると脳にスイッチが入るみたいに意識が広がっていくのが分かる。


 その匂いを存分に身体に取り込みながら、足の裏の感覚を、整えていく。氷の上での一歩はスケートリンクの端から端までを意味している。ただ、それが出来るようになるには割と練習が必要だったりするのだ。それを可能にするのが足の裏の感覚であると頭で理解はしている。しかし、それがコントロールできるかどうかはまた別の問題だ。


 スケート靴の下についている金属製の刃はエッジと呼ばれるだけあって孤を描いている。それれも単純にではない。

 つま先にはギザギザ。そこから親指の付け根。いわゆる母指球のあたりまでに山が一つ。そこから土踏まずと言う名の谷があってかかとまでにもう一度山がある。これが数ミリ単位であるのが足の裏で感じられるようになればスケートリンクの端から端までは一歩だ。


 巧樹は後ろの方の山に重心を意識する。嘘かホントか知らないけれど、上手な人になると60箇所以上の場所に区分けできるらしいのだけれど巧樹にはそこまでの感覚はない。せいぜい20箇所くらいだ。

 重心さえちゃんとしたところに乗ってしまえば、その後は身を委ねるだけで身体は前に進んでいく。


 感覚が戻っていることを確かめると大きく屈伸運動をして足の調子を確かめる。そのたびに空気がかき回されて鼻を刺激する。そうしてようやく、ここに戻ってこれたんだと実感が沸いてきて心が震える。いや、震えているのは全身だ。武者震いとでも言うのか。


 一歩、氷を蹴る。ザクっと音が鳴る。もう一歩。氷とエッジがうまい具合に噛み合っているのが心地よい。


 一歩で端から端まで行けるのだ。それが勢いが落ちる前に続けば必然的に速度は加速していく。


 左足を軸にしてくるりとターンをする。重心を足裏の前に一度持っていき、カーブに身を任せるようにひねると後ろ向きになる。


 右足一本に重心を切り替えると左肩から前の方を覗き込むように身体をひねる。それから、左足を前方向に置いて両手と右足を後ろに振り抜く。あくまでも助走のひとつ。力はいらない。


 後ろにした手足を前に出すのと同時に左足のギザギザをこれまで加速していたスピードを前ではなく上へのエネルギーへ変えるようにストップをかけた。


 そうすると待っているのは浮遊感。そして行き着くまもなく前に出していた両手と右足を自身の前方に軸を作るようにまとめていく。あとは遠心力で身体が回り続ける。最後に着地のタイミングで回転を止めるように身体を開いて後ろ向きに着地すれば、アクセルジャンプの完成だ。


 ISC《国際スケート連盟》により定められた六種類のジャンプのなかで唯一前方から踏み切るジャンプ。アクセル・パウルセンが初めて飛んだジャンプで他のジャンブと比べて半回転余計に回らなければならない以上ジャンプの中でも花形。


 巧樹が一番好きなジャンプであり、しばらくの間、このスケートリンクから離れることになった原因。


「おっ。完全復活だな。天才」


 リンクサイドからそう茶化してくるのはとてもそうは見えないくらい軽薄そうな巧樹のコーチで、悔しいけれどこの人に憧れて氷の上に立ったくらいは影響力のある人物。本物の天才はあなたでしょ。なんて言えるはずもなく。


「まだまだですよ。ただのシングルじゃないですか」


 そう謙遜じみた事実を述べるだけ。今飛んだのは1回転半。巧樹が目指すのは4回転半。人類が到達できる最大の回転数。


 そして目の前の本物はその4回転半にチャレンジして手が届かなかった天才。フィギュアスケートの選手と言えばスラッとした手足を始め全体的にスマートに映る印象があるが彼は違う。


 筋肉質な身体から繰り出される彼のパワフルな動きは、日本人離れしていてジャンプひとつ飛ぶだけで歓声があがったものだ。


 でも。そんな彼も身体を壊して引退してしまった。そしてそれが故にこうやってコーチを引き受けてくれることに繋がっていたりもする。


「でも俺には届かなかったものだ。お前なら手に入れられるだろう?」


 疑問形ではあるが、それは挑発をしているようにも聞こえるし、確信しているようでもあった。そう言っていつだって人が不安で飛ぶことをやめようとするたびに引き止めてくる。


 飛べよ。そう言っている気がする。でも……。


「あれ今年もやるんですか?」

「ああ。もうそんな時期か。ネタ考えてなかったな」


 そうつぶやくと真剣に考え始める彼に巧樹は少しだけムッとする。話を振ったのは自分だったことも棚に上げてだ。


 毎年、コーチも大会に出る。それは出れる大会があるからだ。現役ではないけれど、氷上での演技をやり続けたい人はいる。それが自己表現につながるのだし、そこまで深く考えずに長年培ったものの発現の場だと捉えている人も多い。


 ようはお祭り騒ぎに近い。これまで努力してきた場所との繋がりを維持するためのもの。


 当然過去の成績からコーチを目当てに大会会場に運ぶ長年のファンも多い。そんな中で求められているのはあのパワフルなアクセルジャンプなのだ。

 巧樹の脳裏に焼き付いて、離れない、離してくれないあのダイナミックなジャンプを期待している。


「去年何が流行ったけなぁ。うーん」


 でもコーチが考えているのは違う。毎年やるのはアニメやゲームのパロディネタばかり。ジャンプのひとつやふたつも飛ぶけれど。そこに観客から求められているダイナミックさはない。


 毎年フィギュアスケートの大会とは信じられないくらいの笑い声がスケートリンクに響くのを聞くのが巧樹は苦痛でしょうがなかった。


 あんたの実力はそんなものじゃない。もっとカッコよくて華麗でそれでいて迫力満点なあの滑りを見せつけてやればいいのにと思い続ける。


 会場を埋め尽くすのは笑いじゃない。感嘆の声だ。


「おっ。ほら。こんなところで油売ってないで足を慣らしてこい。でも無理すんなよ」


 油を売っていたわけではなくコーチからのアドバイスや指示を聞こうと思っていたのだけれど。そんなものは必要ないだろうと言わんばかりの対応に慣れていても呆れてしまう。


 とはいえ、お願いしているのは巧樹のほうからだし、コーチのおかげで実力がついたのも巧樹の実感としてある。


「はいはい。わかりました」


 だから言うことは素直に聞くし、そこを疑ったこともない。でも。もう一度あの迫力ある滑りを見たいといつだって思っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る