芳醇 ‐HOUJUN‐

ウニ軍艦

プロローグ


プロローグ



 玄関のドアが開かれる音がしたので、彼が帰って来たのだとわかった。

 キッチンで夕餉の支度をしていた私は西洋葱を刻みながら、「おかえりー」と声をかける。

 いつもなら彼から、「ただいまー」という声が返ってくるのだが、今日は違う。なにも返事がないまま、鍵をかける音も鳴らないうちにキッチンに向かって走って来る足音がした。

 それゆえに私は、家に入ってきたのは彼ではなく不審者の類なのではないかと思って身構え手を止めたが、その考えは杞憂だった。キッチンまで走ってきたのは、私の旦那だ。

 彼は、「菊菜……」と私の呼んだ。

「どうしたの……刀也」

 彼は短距離走のあとのように、肩を上下させながら息をしている。この激しい息遣い……部屋はマンションの五階にあるのでエレベーターが備えられているが、階段で駆けあがってきたのかもしれない。

 しかし、疲れ切った顔をしているわけではない。むしろ逆であり、口角は上がっているし、嬉々とした感情が伝わってくる風だった。なにかいいいことでもあったのかもしれない。美味しいレストランでも見つけたのか、それとも新しいレシピでも思いついたのか。

 私は包丁を動かし始めたあと、「あんたが取り寄せた金柑を使ってソース作ってみたんだ。味見してくれる?」

 しかし返事もないまま、彼は近くまで駆け寄ってきて私を抱きしめる。

 私は慌てて包丁を離して、「ちょ、ちょっと危ないってば」とはいったものの、彼は離してくれず、そのままキスをされた。

 十秒ほどあって彼の唇が離れたあと、「なあに? 酔ってんの?」と訊いた。彼の唇から、うっすらと酒の香りを感じ取ることができた。「まったく、料理自慢の美人妻が待ってるっていうのに、どっかで飲んでくるなんて」

 もっとも、こんなことが珍しいわけではなかったので慣れたものだった。それに、料理自慢という点においては彼に軍配が上がる。彼の技術にはとても敵わない。

「聞いてくれよ菊菜。すごいんだ。すごい日本酒を見つけたんだ」と彼はわたしの肩を揺さぶっていった。「奇跡だよ。奇跡といえるほど芳醇な酒なんだ」

「え、急になんの話……?」

「それを仕入れられることになったんだよ。世間には一切出回っていないけど、俺たちがオープンする店だけに卸してくれるって約束してくれたんだ」

「え? それってすごいじゃない」約二ヵ月後、飲食店を二人で開店することが決まっている。「どんな感じ? わたしたちが気にいってるお酒より美味しいってこと?」

「そんなんじゃないんだ。そんな域にないんだよ。本当に奇跡なんだ」

「どんな種類のお酒なの? とういか、まずどこで飲んだの?」

 わたしは訊ねたが、彼はもう一度私と唇を重ねたあと、「これで繁盛間違いなしだ。俺たち、幸せになれるぞっ」と取り付く島もない。そのあとも彼は、「どんな料理が合うかな……あの酒に負けない食材って、なんだろう……」と呟いていた。

 なにをいっても耳に届かない様子なので、まずは背中を押してテーブルに促す。

 まだ飲む? と訊くと彼は頷いたので、冷やしておいた純米酒を注いであげたあと、白身魚の薄造りに作ったばかりの金柑ソースと西洋葱のみじん切りを散らして彼に出した。

 彼はそれを食べると、ようやく我に返ったかのような顔をした。「美味しい。絶品だ」

 私はくすくす笑って、「そりゃどーも。まあ、あんたには敵わないけどね」

「そんなことはない。何度もいってるだろ。ほんとにセンスがいいよ、菊菜は」

「帰ってきて早々、抱いてくれてキスしてくれて、料理を褒めてくれる旦那なんて、最高だね」

 彼は、「だろ?」とだけ返事をしたあと、また何かに取り憑かれたかのように、「あの酒はすごい。あれに合う料理は……」とぶつぶついっていた。

 目をぎらぎらさせて、怖いほどの興奮ぶりだった。

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