砕けたハートが溶けるまで

羽間慧

砕けたハートが溶けるまで

 バレンタインデーが近付くと、男子は好感度をやたら気にする。小学校最後のバレンタインデーともなれば、もらえる確率が上がると思っているらしい。卒業まで残り一ヶ月。告白を失敗したとしても、気まずい期間は短くて済むのだから。


 昼休みに縄跳びをしながら、俺達は密かに情報共有する。俺は会合に参加するつもりはなかったんだけど、教室では女子が作戦会議を開いていた。もらう側のスパイは退散してと詰め寄られたら、嫌でも外へ行きたくなるよ。


 男子だって、あげる側になりたいときがあるのに。そう言い返したかった。でも、変にしっぽを出すと、好きな人を吐くまで質問攻めに合いそう。世知辛い話だよ、まったく。


「真子ちゃんと栞ちゃん。昨日、チョコレート売り場にいるの見かけたよ。いっぱいカゴに入れてた」

「別のクラスの子も脈アリっぽいぞ。休み時間にうちの教室を覗いているし」

「明日が楽しみだな。一日じゃ食べきれないかも」


 みんな幸せそうで羨ましい。バレンタインのチョコレートは、サンタさんがくれるプレゼントと訳が違うのに。興味のなかった子から渡されても、今みたいに嬉しそうな顔で受け取れるの? たとえば男子おれから本命チョコを贈られた場合でも。どうせ、そっち系じゃないって断るんじゃないのかな。


 俺が俯いていると、瑞穂がたしなめた。


「そう言うの、取らぬ狸の皮算用って言うんだよ。大事なのは、チョコの数じゃなくて思いの深さじゃないかな」


 場は白けなかった。みんなは縄跳びをやめて、瑞穂の頭をわしゃわしゃと撫でる。


「かっけぇ! さすがイケメンだわ」

「じゃあさ、瑞穂が思う理想のチョコの渡し方ってなんなん?」


 それは俺も知りたかった。本命はどんな風にチョコを渡してほしいんだろう。


「やっぱり、机の引き出しかな。朝早く学校に来て、こっそり入れる子。なんか、可愛いくない? 守りたくなるって言うか。いつもより早起きして手作りチョコを作る段階で、好きになりそう」

「それより下駄箱を開けたら山盛りのチョコの方が嬉しいよ。開けるときのワクワク感は大事じゃないか?」

「いやいや。ラッピングしているとはいえ、食べ物は土に触れさせたくないよ」


 俺は二重跳びで心音を掻き消した。


 危なかったぁ。直接渡すのはハードルが高いから、下駄箱に置こうと思っていたんだよね。机の引き出しに置いてほしいって、なんだかロマンチックだ。恋愛対象じゃないかもしれないけど、好きになって……もらいたいな。


 このときの俺は、こっそり聞いたことが裏目に出るとは知らなかった。明日が人生最悪のバレンタインデーになることも。



 🍫🍫🍫



「す、昴だよね? 同じ小学校だった、本郷昴くん」


 購買の列に並んでいると、歓喜の声が聞こえた。記憶にある声よりも低くなっているけれど、美東瑞穂で間違いない。俺の初恋の人。二度と会いたくない、片思いの相手。


 他人のフリをしようとしたが、瑞穂は俺の袖を引っ張った。


「やっぱり昴だ。同じ中学校に通えると思っていたのに、県外に引っ越したって聞いて淋しかったんだよ。もう二月になっちゃったけど、大学で一緒になってよかった。ね、連絡先交換しようよ」


 至近距離で見た瑞穂の顔は、あいかわらず俺のタイプそのものだった。いや、内面も変わっていないのかもしれない。いつも笑って場を和ませる愛されキャラ。場の空気に流されることはなく、自分の意志はハッキリ伝えることができる。そんな自分の言葉に傷付く人がいるとは、考えたことはないだろう。そうでもなければ、平然と俺の前に現われる訳がない。瑞穂にとって、七年前のあの出来事は大したことではないのか。


 俺は笑顔を作った。


「悪い。充電切れてて」


 ちょうどレジが空いたため、瑞穂の手をやんわりと振り解く。財布を開けると、その中にメモ用紙を入れられた。


「僕の連絡先。空メールでいいから、後で送って」


 俺の返事を待たずに、瑞穂はカップ麺の棚へ歩いていった。ウインクの残像も眩しい。


 ラウンジに腰を下ろし、クリームパンを頬張る。前の講義が長引いたせいで、おにぎりは完売だった。大学に着いたときに食糧を確保すればよかったな。


「そうしたら、他学部のあいつと会うこともなかったのに。鉢合わせしないようにしていたのに、無駄な努力だったな。こっちは新入生代表挨拶で気付いていたっつーの」


 三口で食事を終え、さっきの紙片を取り出した。丸みのある文字が懐かしい。

 俺はふっと息をつき、レシートと一緒に破いた。


 脳裏に浮かんだのは、砕けたチョコレート。断面からは涙のようにブルーベリージャムがこぼれていた。


『気持ち悪い。直接渡しに来ない奴のチョコなんて、食えたもんじゃないよ』


 あどけない瑞穂の声が、あの日と変わらない響きで再生される。俺は事前に掴んだ情報の通り、瑞穂の机の引き出しに入れた。ラッピングは、中身が見えるクリア袋と桃色のリボン。あまり凝った飾りじゃないけれど、気持ちを込めてリボンを結んだ。


 ミッションを終えた俺は、トイレに駆け込んだ。チョコレートを置くだけで、心臓が飛び出そうだった。真っ赤になった顔をクラスメイトに、瑞穂に見せたくなかった。俺はしばらくの間、牛乳で腹を痛めた子を演じた。


 そろそろ個室から出ようと思ったとき。瑞穂の声がした。


「誰だろうね。僕の机の引き出しにチョコレートを置いた子」

「真子ちゃんでも栞ちゃんでもないんだろ? 違うクラスの女子にもらえるなんて、ラッキーじゃん。どんなチョコもらったんだ?」


 山口くん、尋問してくれてありがとう。俺はドア越しに拝んだ。


「気になる? だったら、きみにあげる」


 瑞穂の声、だよね。

 俺はびっくりして、物音を立てそうになった。バレンタインデーにチョコをもらえるのは、嬉しくないの? メッセージカードを添えた方がよかったのかな。


 山口くんも慌てていた。


「瑞穂のことを思って、朝早く作ってくれたチョコだろ。俺がもらう資格ないって」

「気持ち悪い。直接渡しに来ない奴のチョコなんて、食えたもんじゃないよ」


 瑞穂の足音が完全に消えてから、俺は目をこする。

 泣いてない、泣いてなんかない。だけど、こんな思いをするくらいなら、手作りチョコなんか作るんじゃなかった。


 恋愛の神様は冷たい。告白から逃げた俺への罰なのかな。友チョコだって嘘をついて渡した方が、瑞穂は喜んでくれたのかな。


 俺が作ったチョコレートは何人もの男子の手に渡り、製作者の元へ戻った。

 みんなが下校した後、俺はハート型のチョコレートを見つめる。かわいそうな愛の結晶を握りしめ、勢いよく床に叩きつけた。


 俺はあの日、チョコレートとともに瑞穂への恋心を捨てた。

 三月に引っ越しすることを親から聞いたのは、それから数日後のことだった。



 🍫🍫🍫



「本当は瑞穂、お前のために作ったんだ。好きな気持ちを伝えたくて、でも直接言うのは怖くて。両思いにならなくてもいいから、チョコレートを渡したかったんだ」


 七年後の俺は、ぽつりと呟く。学生がひしめくラウンジは、後悔を掻き消してくれた。


「はぁ。未練は残ってないと思っていたのにな」


 ガキのころと変わらない笑顔が、鼓動を早くさせる。瑞穂の姿を目で追っていたときの心音に、ひどく似ていた。


 俺にとっては嫌な再会のはずなのに。大学で一緒になってよかった、なんて微塵も感じられないのに。苦しい。鼻の奥がツンとする。


「いい加減、初恋を忘れさせてくれよ。瑞穂」


 スニーカーに雫が落ちた。袖で目元を拭き、ゴミを捨てるために立ち上がろうとした。


「昴ってさ。何かあると、すぐに顔を隠すよね」

「みず、ほ」


 どうして俺の目の前にいる? 購買の列は長かったはずなのに。

 

「ねぇ。あのブルーベリージャムの入ったチョコレート、昴の手作りだったの?」

「そんな手間のかかるチョコ、俺が作れる訳ないだろ」


 俺は瑞穂の横を通り過ぎる。ゴミ箱に動揺も投げ捨てた。


「昴の嘘つき」

「は? 嘘なんかついてねーよ」


 振り返ると真顔の瑞穂がいた。


「嘘つきだよ。食べた人か、作った人じゃないとジャム入りかどうか分からないはずだからね」


 俺のまぬけ。簡単な尋問に引っかかるとは情けない。

 言い逃れできずにいると、違和感に気付いた。


「あれ? 今、食べた人って言った?」


 俺にチョコレートが回って来たとき、三つは減っていた気がした。瑞穂は食えたもんじゃないって言っていたから、てっきり別の奴が食べたと思っていた。


「一応、食べてみたけど。僕の好みどストライクすぎて気持ち悪くなったんだよね。贈り主がストーカーだったら怖いし」

「それは、申し訳ない。瑞穂が給食のブルーベリージャムを美味しそうに食べていたから、好きなのかなって思っただけなんだ。ごめんな。嫌な思いさせて」


 ストーカー疑惑が浮上するくらいなら、回りくどい方法でチョコレートを贈るべきじゃなかったな。

 山口くんにチョコレートを押しつけた瑞穂の気持ちが分かり、長年のわだかまりが溶けた気がした。


 俺の謝罪に、瑞穂は首を振った。


「こっちこそ、贈ってくれた気持ちを無下にしてごめん。あの、さ。昴」

「どした?」


 こっち来てと瑞穂に連れられたのは、一階の階段だった。スクールバス乗り場に繋がる場所は、今は人通りがなかった。


「僕のこと、好きになって後悔してる?」


 上目遣いの瑞穂がぶち可愛い。国宝級かよ。

 可愛さに釣られそうになったが、俺は本音を伝えた。


「……最悪のバレンタインデーにされたけど、一生嫌いになれねぇわ。お前のこと」


 瑞穂以外の人に惹かれることはあっても、キスや抱き締めたい衝動に駆られることはない。今も、瑞穂に触れたい気持ちを押し殺すのに必死だった。


「そっか」


 瑞穂は両手の人差し指をくるくる回していた。頬が赤くなっているのは、暖房のせいだ。


「昴、十四日は空いてる?」

「バイトはなかったと思う。メシでも行くか? お前の奢りなら喜んで行くぞ」


 笑いかけた俺に、瑞穂は頷いた。


「ん。ほかの予定、入れないでね」


 本命、昴に渡すから。



 突然難聴になるヒロインはいるけど、俺の耳は瑞穂の言葉を捉えていた。

 ずるいよ、瑞穂。バラバラになった恋心が再び燃え上がっちまう。脈アリだって浮かれるだろうが。


 だけど、久しぶりにバレンタインデーが待ち遠しくなったのは、気のせいじゃなかった。照れくささと、ときめきが止まらない。

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