第41話


 見送りが終わり、香りが事務室へ戻ると、のばらがにんまりと頬を緩めて香りに抱きついてきた。

「おうおう! 神条さん。誰? 今の! もしかして例の?」

 どうやら、香りと凪砂の一部始終を見ていたらしい。

「……ハイ。本を貸していたので、それを返しに来てくれたんです」

 のばらの迫力に気圧されながらも、香りは頷いた。

「想像以上にイケメンじゃなーい! で? で!? あなたたち、もう付き合ってるの?」

 下世話な笑顔で楽しげに香りをつつくのばら。

「え? いえ」

「なんでよ? 両想いなんだから告白しなさいよ」

「両想い? いきなりどうしてそんな話になるんですか?」

 彼と自分の間に特別なことなんてなにもない。そもそも自分は彼に名前を名乗ってすらいないのだ。両想いもへったくれもない。

 心の中でそう呟いていると、不意に胸がちくりと痛んだ。その意味が分からず、香りは眉をひそめる。

「どうしてって……神条さんは彼のこと好きじゃないの? それなら距離は保たないとダメよ。彼が勘違いしちゃうじゃない。あなたに好感を持っていなかったら、普通こんなところまできてくれないよ?」

「そう……なんですか?」

 きょとんとした様子の香りに、のばらは呆れたようにため息をついた。

「彼、イケメンだしモテるんじゃないの? あなたにもその気があるなら、ちゃんと想いは伝えないと。うかうかしてると手の早い女に持ってかれちゃうわよ――?」

 

 ――かつてののばらの言葉が、猫娘の脳内でリフレインした。猫娘はゆっくりと目を開けた。

「……今さら悔やんでも遅いですよね……」

 猫娘の瞳から溢れた涙が、ゆっくりと頬をつたい落ちていく。何度、あのときに戻れたらと願っただろう。あのとき、なんで迷ってしまったのだろう。目の前の状況に混乱して、頭が真っ白になった。

「黒中さん……ごめんなさい……私のことを助けてくれたのに。私はあなたを、信じてあげられなかった……もし……もしやり直せるなら、今度こそ必ず、助けるから」

 猫娘は涙を拭い、船の中へ戻っていく。


 猫娘は船内の図書館へ向かった。透明な硝子の扉を開き、中へ入る。

 静かな空間。大好きな匂いが猫娘を包む。

 ――パラリ。

 そのとき、微かにページを捲る音がした気がした。猫娘は、ゆっくりと窓際の陽の当たる座席に向かう。光の差し込む窓際の席にいたのは、鬼人だった。

「――黒中さん?」

 猫娘は、鬼人の本当の名を呼ぶ。対して鬼人は顔も上げず、本を読んでいる。

「黒中さん……なんでしょう?」

 黒い髪は腰まで伸び、その額には尖った角がある。真っ赤に血走った瞳に、唇から覗くのは鋭く尖った獰猛な歯。

 鬼人はちらりと猫娘を見たが、すぐに視線を手元の本に戻していった。

「人違いだ」

「違う。あなたは黒中凪砂。どうして? ……どうしてあなたはこの船に乗ったの?」

 鬼人は答えない。

「私……神条香りです。覚えてますか……?」

 ページを捲る手が、一瞬だけ止まった気がした。しかし、鬼人は顔を上げることなく本を読んでいる。

 ポタリポタリと猫娘の頬から顎につたった雨の雫が垂れ、カーペットに濃い色の染みを作っていく。

「知らない」

 しかし、静寂の中で鬼人が放った言葉は、猫娘の体温をさらに下げるものだった。それでも猫娘は、必死に言葉を投げかける。

「生き返るためですか? それとも…………お願い、教えて。私、ずっとあなたと話がしたかったんです」

 鬼人は顔を上げない。口を開くこともない。猫娘は、鬼人に向かって、静かに頭を下げた。

「……ごめんなさい。あなたを傷付けてしまった。裏切ってしまった……。謝って済むことじゃないのは分かってます。黒中さん、どうか話してくれませんか? あのとき、一体なにが……」

 ――ガタンッ!

 鬼人は本を閉じ、音を立てて立ち上がった。そして、目も合わせないまま猫娘の横をすり抜けていく。

「黒中さん……」

 許してもらえないとは思っていた。あのとき、凪砂の話をちゃんと聞いていれば、真実を調べていれば、凪砂が死刑になることはなかった。

 凪砂が誤解されることはなかった。世間から猟奇殺人者と罵られることもなかった。執行室に連れていかれることもなかった。

 凪砂を殺したのは、誰でもない。

「私が、死刑に追いやった……」

 残酷な現実が、猫娘の心を抉る。不器用だけど、優しかった頃の、あの頃の凪砂が恋しい。

「黒中さんっ……!」

 猫娘は泣きながら、必死にその背中に叫ぶ。しかし、鬼人は止まることなく図書館から出ていった。

 ――猫娘は肩を落としてレストランに戻った。

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