第24話・★
『回想・ドラゴン』
ドラゴンは、いつもひとりぼっちだった。
友達とは上手く話すことができずに失敗してばかりで、クラスメイトにはいつしか話しかけることすらできなくなった。
逃げるように学校から帰る。しかし、家にはいつも誰もいない。父親はおらず、母親はいつも自分を育てるために朝晩問わず必死に働いていた。だから、文句なんて言ってはいけない。たとえ今履いている靴が痛くても、服が少しきつくても、我慢しなきゃいけない。
母親はいつも、ドラゴンのために必死で働いてくれているのだから――。
ドラゴンはいつも通り図書館で時間を潰すため、家に荷物を置くと、ひとりぼっちで図書館までの道を歩く。図書館は絹川小学校を越え、大きな屋敷の前を過ぎ、桜並木を抜けたところにあった。
図書館では、閉館の五時まで時間を潰す。ドラゴンは本なんて好きではなかったが、それでもここにいる方が、一人で家にいるよりずっとマシだった。それに、ここには彼女がいる。
「こんにちは」
「お姉ちゃん!」
話しかけてきた女性は、艶のある黒髪を一つにまとめ、穏やかに微笑んでいた。
ティーシャツにロングスカートのその女性の胸元には、
ドラゴンは、彼女のことは『図書館のお姉ちゃん』ということしか知らなかった。下の名前も知らなければ、年齢も知らない。
ただ、ずっとひとりぼっちだったドラゴンに優しく話しかけてくれた、たったひとりの女性だった。
その女性と初めて会った日、ドラゴンは嘘をついた。読みたい本もなく、ただぼんやり本棚を眺めていたところを、彼女が声をかけてきたのだ。ドラゴンは咄嗟に『可愛い本を探してる』と言った。
本なんて探していなかったし、読みたいものもなかった。ただその場しのぎに呟いた言葉だった。しかし、その女性は真剣にその『可愛い本』を探そうと考え込んでいた。
内心焦ったドラゴンは、嘘をついてしまったことが怖くなった。今さら嘘だなんていえず、ただ涙を堪えていると、女性はドラゴンの髪留めや服を見てしばらく考え込み、言った。
「もしかして、動物図鑑かなにかかな?」
え、とドラゴンは反射的に顔を上げる。そしてそのときにようやく今日の格好が動物のキャラクターまみれであることに気付いた。
「そ……そう!」
ドラゴンはうんうんと頷いた。髪留めと服は、代わりがないから付けてるだけだったが、動物は好きだった。
その女性が動物図鑑のコーナーへ案内してくれると、とりあえず一冊棚から取り出して読み始めた。そこには一度も見たことのない動物がたくさん載っていた。
「わぁ……」
「それは烏だね。いつもカァカァ鳴いてる黒いの」
女性が横から本を覗き込んでくる。
「うん、烏だ」
まじまじと写真を見た。
すると、一緒に図鑑を見ていた女性が、烏を見ていった。
「可愛いね」
「え? 可愛いの? だってこれ、いつもゴミ箱にいるの。お母さんがゴミを荒らすガイジュウだって言ってたよ」
「うん……でも、烏ってすごく頭がいいのよ。人の顔なんかもすぐ覚えちゃうっていうし」
「うーん……ほんとだ! 可愛いかも」
これまでじっくり烏を見たことはなかったが、よくよく見ると愛嬌のある顔をしていなくもない、とドラゴンは思った。
「――図鑑も小説も絵本も、すごく面白いのよ。想像が膨らむでしょう? 頭の中ではこの生き物たちを自分の思い通りに動かせるの。自分がこの烏の背中に乗って世界を旅したり、自分が海の生き物になって海の中を自由に泳ぐことも出来る。本はそうやって楽しむのよ」
女性は頬杖をつきながら、にっこりと微笑んだ。その美しい笑顔に、ドラゴンは思わず見惚れた。
本の楽しみ方を教えてもらい、あらためて図鑑を見ると、これまで興味のなかった本が途端にカラフルに輝き出す。
モノクロでひとりぼっちの毎日を彩ってくれたその女性のことが、ドラゴンは大好きになった。
瞳を輝かせて図鑑のページをめくる少女の様子を、女性――神条香りは嬉しそうに見つめていた。
回想から戻ったドラゴンは、猫娘に顔を近づけた。
「――それからね。学校が終わると、ほぼ毎日図書館に行くようになったの。お姉ちゃんに会いたくて」
猫娘はドラゴンの告白に、目を見開いたまま固まった。
「もしかして、ドラゴン……
猫娘は息を漏らすように問いかける。
「お姉ちゃんって、本当に優しいんだね。ドラゴンが誰なのかわからなくても、またお姉ちゃんは私を助けてくれた」
猫娘は、ドラゴンの大きな体に抱きついた。そして、涙を流しながら何度も何度も謝る。
「雨音ちゃん……! ごめん、ごめんね。助けてあげられなくてごめん……」
「どうして謝るの? お姉ちゃんはなにも悪くないよ?」
「ううん、違う。あの日、一人で行かせなきゃ良かった。全部私が悪いの」
猫娘は泣きながら、ドラゴンの体を強く抱き締めた。
「私ね、お姉ちゃんに会って変わったの」
「雨音ちゃん……」
「聞いてくれる?」
ドラゴンの言葉に、猫娘は涙を拭って頷いた。
それからドラゴン――
その人はひとりぼっちだった雨音と同じく、自分も寂しかったのだと言った。それから、ひとりぼっちの人を見ると放っておけないのだとも。
その女性はいつもとても優しくて、美味しいお菓子や飲み物を雨音にたくさんくれた。
雨音は少しだけ明るくはなったものの、誰かと話すことは変わらず苦手だったが、その女性は雨音のどんな拙い話でも、優しく頷きながら聞いてくれた。
その人の家には、雨音の知らない男の人もいた。その人はたまに見かけると無表情に雨音を睨んでくる人だった。年上というのもあり、最初はあまり好きではなかった雨音だったが、とあることがきっかけで仲良くなった。
あるとき雨音は、学校の木の下で悲しげに鳴く烏の雛を見つけた。木の上を見ると、鳥の巣らしきものがあるが、親鳥はいない。
あの巣から落ちてしまったのだと理解したものの、雨音はどうしたらいいか分からず立ち尽くした。
とりあえずハンカチに雛を包み、歩き出す。しかし、学校を出て、再び立ち止まった。
交番へ行くべきなのか、動物病院か。
しかし、雨音は小学生だ。お金なんて持っていない。
少しずつ弱っていく雛を抱きながら、雨音はとぼとぼと歩いた。半泣きになりながら宛もなく歩いていると、いつの間にか絹川の河川敷まで来てしまっていた。
河川敷の草の中にしゃがみこみながら、烏の雛と共に途方に暮れる。
烏の雛を包んだハンカチには、血がついていた。落ちたときにどこか怪我してしまったらしい。不安がどんどん大きくなっていく。
「どうしよう……どうしよう」
雨音の母親は動物があまり好きじゃないため、家には連れて帰れない。
とうとう雨音の瞳から、透明な涙が溢れ出した。
「――おい」
そのとき、背後から声がした。
雨音が涙をためた瞳のまま振り向くと、
「……え」
そこにいたのは、大きな屋敷でたまに見かける男の人――黒中凪砂だった。
「……なんだ、それ」
凪砂は雨音の手元の雛を見た。
「……巣から……落ちちゃったの」
「烏?」
凪砂は隣にしゃがみこむ。
「うん……でも、お母さんは動物嫌いだから、お家にも連れていけないの。でも、このままじゃこの子死んじゃう」
そう言って雨音が肩を落とすと、
「来い」
凪砂は一言そう告げ、突然歩き出した。雨音は訳が分からず、きょとんとその後ろ姿を眺めていると、凪砂が振り返る。
「……来ないのか」
「あっ……い、行く!」
慌てて雛を抱き上げ、凪砂の後について行った。
「お兄ちゃん……この子助けてくれるの?」
凪砂は古びたアパートの一室に雨音と雛を入れた。雨音は牛乳を温める凪砂の背中に向かって訊ねる。
「俺がやんなかったらコイツは死ぬ。いいのか」
「……ごめんなさい」
ぶっきらぼうにそう告げる凪砂に、雨音は身を縮こまらせた。すると、凪砂はさらに眉間に皺を寄せて雨音を見る。
「謝るな。べつに、怒ってないから」
「だって……お兄ちゃんに迷惑かけちゃったから」
「……迷惑だとも言ってない」
凪砂はそう言いつつ、雨音から目を逸らした。その仕草は特に嫌そうには見えず、雨音はホッとした。
「……ありがとう。お兄ちゃん」
凪砂の口角が、ほんの少しだけ上がる。
「よかったね」
雨音は一生懸命に鳴いて餌を求める烏の雛に呟いた。
ドラゴンは過去を話し終えると、大きな体を器用に丸めた。
「……ユニコーンが言ってたおばあちゃんは、ドラゴンに優しくしてくれたおばあちゃんなの……。ねぇ、カラクリが言ってたことって、本当なの?」
「カラクリさんが言ってたこと?」
「おばあちゃんを殺した人のこと……」
猫娘は悲しげに目を伏せ、こくりと頷いた。
「……うん、本当。その後、彼は死刑になった」
猫娘は、じっとドラゴンを見つめた。そして、意を決したように口を開く。
「ねぇ、雨音ちゃん。あの日のこと……」
「お兄ちゃんは違う。お兄ちゃんはそんなことしないもん」
ドラゴンは長い睫毛を悲しげに震わせた。
「お兄ちゃんはおばあちゃんとすごく仲良かった。雨音にもすごく優しくしてくれた。ノアのことも助けてくれた」
「じゃあ……」
あなたを殺したのは、本当にその人なの? と問いかけて、猫娘はすんでのところで言葉を呑み込んだ。
それは、まだ十歳の少女に聞いていいことではないと猫娘は思い直す。
「……そうだ。雨音ちゃん。カラクリのところに行かない?」
カラクリの本名は鈴石仁平。彼は警察官だ。話を聞くのは自分より上手そうだ。もしかしたら、雨音もカラクリにならすべてを話してくれるかもしれない。
「……ど、どうして?」
ドラゴンは怯えたように体を震わせる。
「怖がらないで。大丈夫。カラクリは私の学生の頃の先輩で、警察官だったの」
「……あのドレスのお人形さんが?」
「あ……うん。今はちょっとファンシーだけど、実際はすごく優しくてかっこいい人なのよ」
「…………いやだ。怖い」
ドラゴンはぶんぶんと首を振る。
「やだ……やだ、やだ」
そして、それきり黙り込んでしまった。
「そうよね。ごめんね。雨音ちゃん、ごめん……話してくれて、ありがとう」
猫娘は優しくドラゴンを抱き締めた。
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