第26話 君に手が届かない
「高く買ってくれても、喜べないな」
自嘲を交えて返答したボクケイだが、内心では焦りを覚えた。彼の起死回生の策は、クリューにボクケイ自身の右腕を確実に狙わせる流れを作り、剣を振り下ろしたタイミングを見計らって、弟を右腕から左腕に持ち変える、という離れ業だった。クリューに慎重に出られると、策の成就する確率が低まってしまう。
「逆転されるのは御免だ。ここは念には念を入れる」
言葉遣いを改めたクリューはボクケイの背中側を通って、左側に立つと、剣を一振りした。
「う」
痛みが一歩遅れてやって来た。ボクケイは声に出さぬよう、奥歯を噛み締める。
クリューの刃が切り裂いたのは、ボクケイの左二の腕の辺り。切断しようという勢いはなく、傷つけ、痛めつけることに絞った剣使いである。
「うーん、もう少しかな。もう少し傷を深くして、左を使えないようにしておかないと不安だ」
クリューは淡々としゃべりながら、切っ先で傷口をえぐった。ボクケイは歯を食いしばり、悲鳴を堪える。隙があれば蹴りでクリューを遠ざけたいのだが、残念ながら今の相手にそのような油断は見当たらない。
「兄さん!」
ボクケイは我慢できても、ハクリには見るに堪えない光景だったようだ。お荷物になっている自分がどうにかせねばと右手を持ち上げて必死に建物の縁を掴もうとするが、やはり肩に異常を来しているのだろう、五秒と持たず、空しく下ろすほかなかった。
「これくらいでよいだろう。あんまり時間を掛けてもいられないし、そろそろ行くとしましょうか」
言葉遣いがまた元に戻るクリュー。勝利を確信したためか。
「二人に今の気持ちを聞いてみたいねえ。弟は命が風前の灯火、兄は腕を失えば自慢の武術を使えなくなる。ああ、いやいや、それ以上に興味深いことがあるじゃないですか。弟が落ちていくのを見るのと、腕を切り落とされたのとでは、どちらの苦しみの方がよりきついのか、あとで感想を聞くから、即答できるように用意しておくこと」
言うが早いか、クリューは策から上半身を適宜乗り出し、剣を振りかざす。
「兄さん! 放せ! 僕のことは放って、そいつをやれ!」
ハクリは彼自身が握っていた兄の手首を放していた。
「馬鹿っ、握れ」
ボクケイは握る手に新たに力を込めねばならなくなった。そうしている間にも、クリューは「麗しい兄弟愛といったところかな」と笑い声を立て、狙いを定めるように剣の位置を調節する。
「おや。さすがのお兄さんもぷるぷると震えが来ていますね。なるべく動かないでいる方が、確実に一刀両断にできて一瞬で終わると思うんですが、やむを得ない。どうなるか分からないが、私の腕前のせいじゃないからね」
その台詞が終わると同時に、クリューは剣を振った。
「ボクケイ兄さん!」
コンマ数秒遅れで届いた激烈な痛みが、弟の声と表情を、ボクケイの記憶に焼き付ける。
クリューの言葉とは裏腹に、剣は一度目でボクケイの右腕、手首と肘のちょうど中間辺りを断った。
みるみる内に、兄弟の距離が開く。ハクリの顔が、姿が小さくなっていく。
「ハクリっ」
己の右腕がハクリの手を掴んだままであることを、否応なしに見送る。
ボクケイは不意に、気力を常に振り絞っておかないと失神しそうなな感覚に襲われた。
(これはっ。ここで踏みとどまらねば、このあと、奴にとどめを刺される。例の“感想”を言ういとまを与えてくれるとは思えない)
ボクケイはクリューが落ちていくハクリに、ほんのわずか気を取られているのを見て取った。その隙を突く。ボクケイは右腕をクリューの頭の辺りに向けて強く振った。
「何?」
顔面いっぱいに血を浴び、クリューは戸惑いを露わにした。
ボクケイは狙い通りになったことに心中、快哉を叫ぶ。だが一方で止血を急がねばと焦りも覚えていた。使えそうな紐状の物がないか、左手で懐を探る。だが。
(意識が。頭がふらつく。ハクリはどうなった? 足から落ちたように見えたが、助かるかどうかは分からない。仮に命に別状なくとも、すぐにこいつらが襲撃するだろう……)
だめだ。立っていられない。がくりと片膝を突く。それでもなお、視界が揺れている。
(今のところ、腕の痛みの方が影響は大だぞ、クリュー。弟のハクリは死んじゃいないと信じる。だから私のすべきことは、クリューの足止め)
正真正銘、最後の気力を発揮し、ボクケイは上っ張りを脱いで止血に取り掛かった。クリューへの目潰しが効いている間に、急がねば。
ところが。
新たな人物が、ほぼ間違いなく敵側の人物が、ビルの中から屋上へと現れた。
「何を手間取っているのです?」
聞き覚えのある、というよりも前に聞いてまだ間がない女の声だった。
(この声はあのウェイトレスか? あ――目がかすむ……だめか、ここでおしまいなのか)
ボクケイは、呼吸をするのを……止めた。
――第一章.了
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます