第47話 月の神殿?問題 


 どれくらいの時間が経ったのだろうか。ひんやりとした床の感触にふと意識が戻った。目を開けてみると、そこは仄暗い場所だった。

 光が届かない天井はどのくらい高いのだろうか。とても広い空間だが、白い石柱がずらっと並んでいた。歌姫の記憶で見たことがある景色だった。

(ここは——。ここが月の神殿だ!)

 弾かれたように目を見開くと、しゃがれた声が耳を突いた。

「目が覚めたか」

「カース!」 

 おれは慌ててからだを起こした。周囲に視線を巡らせると、カースはそこに立っていた。白と黒の真四角の石が敷き詰められている床は、青白く光っていた。床だけではない、柱もそうだ。この建物自体が光を放っているようだった。

「音。やっとお前と……。ここに帰ってくることができた」

 カースは相変わらず白い仮面をつけている。そこから覗く瞳は穏やかな色を讃えている。不思議と怖いとは思わなかった。おれは冷静に、その視線を受け取っていた。

「——ここで貴方と音は眠っていたんだね」

「そうだ。永き時間であった。お前の枷は強く、さすがのおれでも一人で抜け出すことは叶わなかった」

(一人で?)

 目の前には数段高くなっている祭壇が設置されており、そこには真っ黒い大きな石の箱が置いてある。それはまるで、棺のように見えた。

 カースはその祭壇へと視線を向ける。

「音が目覚めたら。なんと言うのだろうか」

「音と再会するのが怖いんじゃないの? カース」

 彼は怒りもせずに、じっと石棺を見つめていた。

「お前にはわかるまい。愛した者に裏切られた者の気持ちを。憎んでも憎みきれないのに。心は音を求めてしまう」

(わかるよ。その気持ち。おれもそうだ。辛い思いをするなら、サブライムと出会わなければよかったって、そう思うから)

 ずっと考えていた。カースという男の気持ちを。彼が一体、なにを考えているのか。ずっと考えていた。

 カースとは。振り向いて欲しくて。わざといたずらや悪いことをする子どもみたいだ、と思った。

「もし……、おれが覚醒したら。音が表に出てきたら。貴方の味方をすると思っているの? もしかしたら、封印されてしまうかも知れないのに。貴方はおれを、いや。音の魂を滅しようとはしないんだね」

 カースは首を横に振った。

「今度はわけが違う。おれはお前が守ろうとする世界を全て消すのだ。そうだ。お前はもう守るものがなくなる。どうだ? お前はおれを選ぶしかないのだ。もうおれ以外の者を選ぶことはできぬのだぞ」

「獣人たちは、貴方が獣人の世界を作るって言っているから協力しているのに。裏切るの?」

「獣人の世界? そんなもの。おれにはなんの意味もない。おれが欲しいのは音と二人きりの世界だ」

 なんたることだ——と思った。カースはただ一つのことを成し遂げるために、世界中の全てを敵に回すというのだ。

「みんなを騙したの?」

「騙してなどはおらぬ。そんな約束はしていない。あの者たちが勝手に自分たちのいいように解釈をして、王都に攻め入っているだけだ」

 堂々と言い切ったカースの姿に、なんだか怒る気にもならなくなった。黙り込んでじっとしていると、カースは「怖いか?」と聞いた。

「お前は自分の運命を呪うか。音の魂を宿し生まれたことに対し、なぜ自分なのだ、と思わぬか」

「思うよ。思っているよ。ずっとだ。貴方におれの町を襲撃されたあの日から。なんでおれなんだよって、何度も何度も思っていた。けれど」

「なんだ」

「今はそうは思わない」

 カースの瞳の色が濃くなる。おれは怯まずに続けた。

「今はおれでよかったと思う。他の猫族にこんな思いさせたくないもの。それに、おれはサブライムにも出会った。大切なんだ。歌姫じゃなかったら、きっと彼には出会うことができなかったもの」

 カースは怒り出すのかと思った。けれど彼は目を細める。その瞳は優しい色をしていた。

「ねえカース。古文書を読んだよ。貴方は当時から、忌み嫌われ、呪われた存在だった——と書かれていたよ。ねえ、どうしてそうだったの? ねえ。悪いことしてもいないのに。そんなこと言われたら……辛いよね。きっと」

 彼は素気なく言った。

「古文書のことなど知らぬ。おれがどんな存在であろうと関係はない。おれはこの世界が憎いだけだ。人間は傲慢で強欲の生き物だ。自分たちの欲のためなら、平気で他者の幸せを踏み躙る。我こそが地上の支配者であると自惚れているのだ。おれたち獣人は、いつでもその細やかな願いですら、叶えることができぬ。違うか。お前は獣人だ。王のつがいにはなれぬ」

 そうだ。おれはただの猫族に生まれた黒猫。平凡で頭も悪い。夢見がちで、妄想癖があって、いつも先生に怒られてばかりいる。そんなおれが、王であるサブライムのつがいになれるような立場じゃないってことくらい知っているのだ。

 それでもおれは願う。サブライムと一緒にいたい——と。

「カース。それでもおれは、その夢を叶えたい」

「お前の願いは、必ず潰されるぞ」

「やってみなくちゃ、わからないじゃない」

 おれは真っ直ぐにカースを見上げた。

「貴方は優しい人だね。心配してくれているんじゃない? ねえ、音はそんな貴方が大切だったんだよ! 貴方は独りぼっちだったんじゃないの? どうして自分が、周囲から疎外されているのか。理不尽だって思ったんでしょう? どうして自分なのかって。運命を呪ったんでしょう?」

 昨晩、博士とピスと古文書の解釈について話し合った。

「カースという男は、王宮の闇が生み出した悲劇とでもいうのか。我々は、なにかとてつもなく大きな悪意に踊らされていたのではないか」

 ピスはそう言っていた。おれも同感だった。けれどカースは「そんなことはどうでもいい」と吐き捨てると、おれの胸倉を掴んだ。

「うるさい黒猫だ。おしゃべりがすぎたな。お前は黙ってそのからだを差し出せばいい」

 カースの力は強い。引きずられ、それから石棺のところに放り出された。均衡を崩し、おれは転びそうになって慌てて石棺に手をついた。けれども引き下がれない。

「おれは知りたいんだ! 貴方のこと」

「知ってどうする? すでに終わったこと。そして音が覚醒すれば、お前には関係のないことだ」

「関係あるよ! おれには知る権利があるよ! おれのことを巻き込んでおいて、勝手すぎるよ。傲慢なのは貴方だ!」

 カースは怒り狂うのだろう。しかしそんなことはどうでもよかった。

「貴方は音に復讐したいわけじゃないんでしょう? 再び会える日を待ち侘びていたんでしょう? 音との静かな暮らしをただ——守りたかっただけなんでしょう?」

 おれを掴んでいた手の力が抜けていった。

「おれたちはつがいになる契りを交わした。おれは幸せになるはずだった。それなのに——。お前はおれの元から去った」

「違う。そうじゃない」

「いいや。違わぬ。拒絶した。おれの手を振り払い、王の言いなりになった。お前は縋ったおれを、冷たくあしらったのではないか。それのどこが、拒絶ではないというのだ……」

 彼の声は段々と小さくなり、そのまま押し黙ってしまった。

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