第4話 じいさんと鳩伯爵?問題


「凛空。怪我はないか」

 耳元で囁かれた声を聞いて、じいさんだと理解した。一瞬、違う人に見えたけれど、そこにいたのは、紛れもなくじいさんだったのだ。

「ない、けど……じいさん。これは……?」

 男は、おれに触れようとしていた手を握りしめ、胸元に引き寄せる。それから肩を震わせて、くつくつと笑った。

「リガードか。遅いじゃないか。君らしくもない。おや。ずいぶんと老け込んだみたいだ。君と会ったのはいつぶりだろうか。——そうだ。その黒猫が生まれた日だ。忘れもしないあの日。お前たちに大きな貸しを作ってしまった日だよ」

(おれが生まれた日?)

 話が見えない。おれはじいさんを見上げるが、じいさんは男から視線を外すことはない。

「あの時。お前の息の根を止めておくべきだった」

「おや。可笑しなことを言うものだ。あの時、おれを殺せたと思っているのか? お前ら如きが。何人束になってかかってこようと、このおれの相手ではない。全く持って失礼極まりない発言だ。撤回したまえ」

 男はおれたちのほうにからだの向きを変えた。その場の空気が凍りついたように感じる。

 この男は——ただ者ではないということ。おれでもわかった。

「カース……。過去の遺物が。いつまでこの世に執着するつもりだ」

「過去の遺物か。その遺物であるおれに、翻弄されているお前たち人間は愚昧——。自らが支配者であると豪語し、神の与し平和と自由の地を穢す」

「我々は支配しているのではない。全ての種族と友好的に、この平和を築いてきた。それを邪魔だてしているのはお前だぞ。カース」

 男の名はカースというらしい。彼は、再び不気味な笑い声をあげた。

「友好的だと? まさか、本気で言っているのではあるまいな。リガード。お前が一番よく理解しているのではないか。中央を取り仕切っている王宮には人間族しかいない。この国は人間たちだけで動かされているのだ。

 獣人たちは地方に追いやられ、王都にやってくる者たちは、ただの労働力としかみなされない。この世の中のどこが友好的だというのだ? 虎族、熊族が反旗を翻す意向を示している。他の獣族たちも彼らに続くだろう。これは戦争だ。これからこの国は戦渦に巻き込まれるのだ。千年前と同様にな」

 じいさんとカースの間には、一触即発の緊張感がある。黒鳥たちは周囲の瓦礫にとまり、じっと様子を伺っていた。

「そんなことはさせない。お前の思惑通りに事が進むと思うな」

「リガード。そんな怖い顔をするな」

 カースは両腕を広げてから、声色を柔らかくしてじいさんに語りかけた。

「お前はいつまで王宮に忠義を尽くすつもりだ? 王宮はお前を守ってくれなかったではないか。人間の血で構成されている王宮に獣族の血を迎え入れたお前を、皆は蔑んだ。お前の子は周囲からの圧力に耐えきれずに、闇に落ちて死んだ」

「お前が誘惑した」

「これは心外だ! お前の息子から近づいてきたのだ」

 カースは演技がかった声で続ける。

「お前の息子が死んだのは、我が子が原因だ。生まれてきた子は獣族の血を色濃く受け継いでいた。ああ、可哀想に。お前の孫は王宮でたった一人の獣人。皆の笑い者だ」

 おれはなんだか恐ろしくなった。カースを見つめているじいさんは、おれの知っているじいさんではなかったからだ。

 じいさんは、怒りを押し殺すかのように、静かな声で言った。

「あの子は、クレセントによく似て気高い。そんな下世話な話には耳を貸さない」

「……と信じていたいのだろう?」

 カースが笑い声を上げるたびに、じいさんの表情は険しくなる。挑発されているとわかっていても、抑えきれないほどの思いがそこにあるのかも知れない。

「おれはお前が好ましい。愛らしくさえ思う。お前は建国以来、稀にみる魔術師だったが、その感傷的な性格が災いした。心の奥底では人間を呪って生きてきたのだろう? お前は我々に協力するべきだ。——さあ、さっさとその黒猫を寄越せ。我々の手をとれ。伴に王宮に復讐を果たそうではないか」

 じいさんは聡明で思慮深い人だ。だけど今この時のじいさんは違っていた。声こそ荒上げないけれど、その静かな口調の奥底には、とてつもない憎悪の念が見て取れた。

「じいさん……」

 じいさんは「黙っておけ」と囁いた。おれの肩を掴む手に力がこもる。

「私はお前などに協力するつもりはない。お前の理想は偏っている。お前には賛同しかねるのだ。カース」

「そうか。それは残念だ。残り少ない命。無駄にするということだな」

 カースの言葉と同時に瓦礫の影から姿を現す者がいた。おれはその姿を見て「あ」と息を飲んだ

 そこにいたのは雄聖だったからだ。焦げ茶色の耳がピンと立ち、彼が興奮していることは明らかだった。

「雄聖! 大丈夫だったの? ねえ、雄聖! 屋敷は……」

「凛空。雄聖はダメだ」

 彼の元に駆け寄ろうとしたおれを、じいさんの腕が阻止する。

「なんで。じいさ……」

 雄聖は手に長剣を握っている。カースが「雄聖」と彼の名を呼んだ。

「黒猫を連れてこい」

「イエス。マスター」

 雄聖は無機質な声でそう答えると、おれとじいさんの目の前に立ち塞がる。意味がわからなかった。これは一体——。

 雄聖はじいさんをまっすぐに見据えて言った。

マスター、いえ。リガード様。おれがカース様の密偵だったと気がつかれていたのですか」

「一ヶ月くらいになるだろうか。お前がカースに手を貸すようになったのは」

「——そうです。母が病気なのです。カース様は、母の病を治してくださると約束してくれた」

「お前の母親の病は治らぬ。闇の魔法の力を借りれば、お前の母親は地獄を見ることになる」

 じいさんはそう言い切った。しかし雄聖は首を横に振った。

「いつも貴方は正しい。けれど、その正しさだけが正義ではないということです。母は母だ。おれにとったら、唯一の肉親でもある。一日でも長く生きて欲しい。おれの願いはそれだけだ」

「お前の気持ち。痛いくらい理解できる。だが——。命は道が決まっておるのだ。無理に捻じ曲げてどうする。やめておけ。今ならまだ間に合う」

 雄聖は困惑したように視線を伏せた。しかし——話を聞いていたカースが口を挟んだ。

「雄聖。お前はおれに忠誠を誓ったはずだ。お前の母は助けてやる。目の前の元主を殺せ。それが条件だ」

 じいさんの言葉に迷いを見せていた雄聖だったが、彼は「申し訳ありません」と頭を下げた。じいさんは厳しい表情のまま、彼に言い放った。

「わかった。お前にはお前の譲れぬ願いがあるのだろう。私はそれを尊重しよう。だがしかし——私にも成し遂げなければならぬことがある。お互いここで終わる命だ。遠慮などいらぬ」

 じいさんはそう言った。それから、おれを自分の後ろに押しやった。雄聖は長剣を構える。

「御恩があります。一思いに」

「お前に私が倒せるか?」

 じいさんは懐から短刀を抜くと、それで星を描くように空を切った。

「汝、前に来りて我に従え。天空の霊も、虚空の霊も、地上の霊も、地下の霊も、乾きし地の霊も、水中の霊も、揺らめく風の霊も、つきさす火の霊も。すべての生まれなきものよ。我はここに召喚する——」

 詠唱はとっても小さくて、そして素早くて。雄聖が剣を構えて、切りかかってくるその一寸の間だ。星はまばゆいばかりに輝いたかと思うと、周囲が暗闇に包まれ、そしてじいさんの目の前に真っ黒な存在が立ち現れた。

 煙のような黒い闇は、ぐにゃぐにゃと形を変え、鳩と馬になった。

「一度に二体の悪魔を召喚するなんて……!」

 雄聖は怯んでいた。握っていた長剣がカタカタと音を鳴らす。

「大公。すまない。あの子を頼む」

 じいさんが馬のからだを撫でると、まるでそれに応えるかのように、馬はおれのそばまでやってきた。

 それから、じいさんの肩にとまっていた鳩は、更に形を変え、じいさんよりも二回りくらい大きな人型になった。

 鳩の顔を持つ者——。漆黒のジャケットに、漆黒の蝶ネクタイをし、背中からは灰色かかった青紫色をした羽根が生えていた。

「伯爵——、最後の頼みになりそうだ」

 じいさんは、その気味の悪い男を見上げる。彼はじいさんを見下ろしてから、低い声で言った。

「お前も年を取ったものよ」

 その様子を見ていた雄聖は、「くそおおー!」と叫び声をあげて、切りかかってきた。

 鳩伯爵は腰にぶら下がっていた細剣をあっという間に引き抜き、それを軽々と弾き返した。

「そうだな。伯爵とは長いつき合いになった」

 雄聖は衝撃で尻餅をついたが、再び鳩伯爵に切りかかっていく。まるで相手になっていない。

 鳩伯爵は雄聖を見もしない。ただじいさんとの会話を楽しんでいるようだった。

「お前にとったら長き時間か。だがしかし。私から見れば、瞬き程度——とでも言っておこうか」

 鳩伯爵は羽根の力を使い、軽快に身を翻す。終いには宙返りを見せ、雄聖との距離を取った。

 雄聖の額には汗がにじんでいた。目は見開かれて、血の気のない唇は、ぶるぶると震えるばかりだった。

 しかし雄聖は、自らを鼓舞するかのように何度も雄叫びを上げて、果敢に挑んでいった。

「やめて! 雄聖!」

(だめだ。このままじゃ……)

 相手に対して恐れを抱いた時点で雄聖の勝算はない。素人のおれから見ても、それは火を見るよりも明らか。

「果敢に挑むのう。小童こわっぱが。しかし、これでは暇つぶしにもならぬ。リガード。この男は、お前には深い恩義を感じているようだが……。本当に良いのか?」

 じいさんは「頼む」とだけ言った。鳩伯爵は「ポポポ」と不可解な笑い声をあげた。

「人間とは難儀なものよ。いいだろう。お遊びは、終いにしよう——」

 鳩伯爵はまるで野に咲く花でも刈るように、ひょいと剣を振るった。鳩伯爵に避けられて、態勢を崩し、前に倒れ込みそうになっていた雄聖の首筋から鮮血が吹き出したかと思うと、その巨体が地面に倒れ込んだ。

(雄聖!)

 おれは思わず目を背ける。なんでこんなことに。雄聖とは一緒に暮らしてきた仲じゃないか。それなのに——じいさんは彼を殺すように鳩伯爵に命じたんだ。信じられない。信じられなかった。

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