第16話 祖父

 パジャマに着替えてバスルームを出ると、廊下にも肉の香りが広がっていた。

「シャワーありがと」

「どういたしまして。パジャマも動物か」

「子供っぽいと思ったでしょ?」

「こだわりの強さに脱帽してる」

「うわ、肉が霜降りだ。しかも木箱に入ってる」

「たまには豪華にって思って」

「しらたきは?」

「肉が固くなるから今回は入れない。さあ、食べよう」

 炭酸ジュースで乾杯し、一気に胃の中へ流し込んだ。

 冷たくて、アルコールとシャワーで火照った身体を冷やしてくれる。

「すげー食べたかったんだ。ひとり暮らしだとあんまりこういうのやらなくて」

「今はひとり用のなべとかあるけど、僕もすき焼きはやらないなあ。家族とはなべやらなかったの?」

「基本的におじいさんの好きなものしか出さないから。藤宮家にとっては特別な人だし、誰も逆らえないよ」

「あっくんは全然華道はやらないの?」

「やらないね。道具にすら触らせてもらえないし。俺は異質な人間だから、おじいさんからしてもいないものとして扱いたいんだろうな。可愛がるのは弟だけで、お年玉ももらった記憶がない」

「それは寂しいね。差をつけられている感じがする」

「ああ。だからひとり暮らしをして、好きな人と一緒に暖かい家庭を作りたいんだ。よくあるような、一般的な家庭がいい。お互いにいってきますといってらっしゃいを言えて、一緒にご飯を食べる。当たり前に経験できるものは、俺にはないから。なあ、」

 秋尋が箸を置いたので、窓夏も卵を溶く手を止める。

「近いうちに親に話して、いろいろ決着をつけようと思うんだ。そしたら一緒に住まないか?」

「ここに?」

「衣装部屋に使ってた部屋を片づければ、スペースが空くし。……もうお前と離れるのが嫌なんだ。会って別れるたびにまた十年会えないんじゃないかとか、夢まで見ちまう。ここにいてほしい」

 彼の気持ちが胸を締めつける。

「もしそうなったら、お友達からお願いしますはランクアップするか?」

「する。でも今日は無理だよ。あっくんと遊ぼうと思って、トランプとかいろいろ持ってきてるんだから」

「泊まりなのに?」

 信じられないと言った声だ。

 窓夏もまけじと遊ぼうと全力で誘う。

「うん」

「俺よりトランプ?」

「あっくんと遊びたいんだよ」

 秋尋は窓夏の器を奪い、霜降り肉を入れていく。

「子供の頃にできなかった遊びを、今日はたくさんしよ? かくれぼでもいいし、ゲームでもいい」

 彼と過ごせなかった小学生時代を、ともに歩みたいと思った。

 中学生のときも、秋尋は一目置かれる存在だった。小学生の頃も、きっと変わらなかったはず。

 すき焼きと締めのうどんを堪能した後は、肩を並べてテレビゲームに熱中した。

 二十三時を過ぎればベッドルームへ行き、今度はトランプでババ抜きの勝負だ。

「俺、いつもひとりだったから、こんなに遊んだのは生まれて初めてかも。ふたりでババ抜きはあまり勝負にならないな。でも楽しいよ」

「うん、僕も楽しい。兄弟になれた気分」

「そういう関係もいいな。たまんない」

 窓夏があくびを連続でしたところで、お開きとなった。

 この日、同じベッドでしりとりをしながら眠りについた。

 窓夏は幸せな夢を見た。一軒家で大きな庭に犬を走らせ、縁側には秋尋が座っている。

 秋尋が何か言っているが、夢のせいで何を言っているのか聞こえない。ただ、はにかんだ顔から彼も同じ気持ちだと嬉しくなった。

 幸せな夢はずっと続き、翌日は昼まで目覚めることはなかった。


「泊まったのは二度目だったか」

 朝食も秋尋にお任せし、窓夏はテーブルに昨日のトランプでタワーを作って遊んでいる。

「そうだね。前は僕の家だったから」

「お前の家で同棲でもいいかもな」

「ああ、もう、壊れちゃったじゃん」

 タワーは無惨にも崩れ落ちてしまった。

「そろそろよけてくれ。もうすぐできる」

 昨日の残ったすき焼きにうどんと野菜を足し、溶き卵が入っている。

「豪華」

「肉はほとんど入ってないけどな。いただきます」

 朝食と兼用の昼食は、ほんの少しの霜降り肉入りでちょっぴり豪華だ。

「同棲の話の続きは?」

「昨日さ、恋人っていうより子供がお泊まり会をしたみたいだったろ? すげー楽しかったんだ。あんなに笑ったの久しぶりってくらいに。ずっとこんな日が続いてほしいと思った。だから、明日にでも実家へ行ってくる」

「急に?」

「覚悟ができたんだ。やっぱりお前といたいから。多分、殴られるか勘当のどちらかだと思う。顔を腫らしたら優しく慰めてくれ」

「膝枕して顔冷やしてあげる」

「……殴られたくなってきた」

「あっくん、ちょっと怖い」

「どんな結果になっても、俺と一緒にいてくれ」

 たっぷり野菜が入ったうどんを平らげ、片づけは窓夏が引き継いだ。

 返事の代わりは、自室になるであろう部屋の掃除だ。




 実家から連絡がきたのは、こちらが一報入れるより先だった。

「おじいさんが倒れた?」

 家族と見なされない関係性であっても、聞いた瞬間は地に足がついていない感覚が襲ってきた。

「……分かりました。ええ、すぐに向かいます」

 そう言いつつ電話を切ったものの、家を出た後はどんな顔をして会えばいいのか分からなかった。

 中学生以来、ほとんど足を踏み入れていない屋敷は、庭がだいぶ変わっている。

 桜の木が成長し、隣に新しく二本植えられていた。

 池には錦鯉が増えている。足音に反応して水面に波が立ち、水しぶきが上がる。

「お帰りなさいませ」

 家政婦のお出迎えに一揖した。

「旦那様のところへご案内します」

「その前に母さんに会ってくる。離れだろ?」

 家政婦は唇を結び、眉間にしわを寄せた。

 倒れた祖父より異端の母か、と言いたいのだろう。まったくもってその通りだ。そこだけは譲れない。

 家政婦の横を通ると、小さなため息が聞こえた。

 離れへ行くには、中からも外からも行ける。中を通れば近道だが、秋尋は遠回りの道を選んだ。

 同じ家でも、物置小屋だ。本家とはまるで違う。

 怒りが込み上げながら、秋尋はインターホンを押した。

「秋尋?」

「久しぶり、母さん」

 母は息子の顔を見るや、背中に腕を回した。

 秋尋も小さな身体を抱きとめる。

「しばらく連絡できなくてごめん」

「頑張っているのは知っているもの。いつもテレビでね」

「ありがとう。荷物だけ置かせてもらってもいい? 先におじいさんのところへ行ってくるよ。あとがうるさいから」

 ドアを閉めて、秋尋は肩を落とした。

 テレビしか楽しみがないという母は、自由に出られるものの座敷牢獄に閉じ込められているようだった。

 彼女も無理やり部屋から引っ張りだせたらどれだけいいか。

 けれど、意外とこの生活が気に入っているという。

 父に命令されるがままに生きるより、自由な今が一番いいと。

「遅くなりました」

 心にもないことを口にし、ずかずかと遠慮なしに襖を開けた。

「先ほど、眠りについたばかりです」

 主治医はもう帰るところで、道具を片づけていた。

「年齢も考えると、無理をしていい年ではありません。息子さんもしっかりと話しをして下さい」

「分かりました」

 心にもない言葉を口にし、医者を見送った。

 祖父の顔は真っ白で、血の気があまり感じられない。

 強気だった顔から覇気がなくなり、弱々しい顔つきへ変わっていた。

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