風船を持つ少女

 そこは少し洒落た通りだった。個人でやっているギャラリーやブティックなどが建ち並んでいる。歩いている人たちが着ている服も、なんだか高級そうだ。

 ハイヒールを響かせ、スーツ姿の女性が前を歩いていた。女性は歩きながら大きな黒いバッグからシンプルな手帳を取り出した。

 スマホ全盛期という感じだけど、まだ手帳を使う人もいんだな、なんて僕はぼんやりと考えていた。

 開いた彼女の手帳から、ひらりと何かが落ちた。

 それは一葉のハガキだった。

 真っ白な背景に、長く黒い髪を一つに縛り、黒いワンピースを着た少女が描かれていた。黒い服を着ているから、肌の白さが映えてきれいだ。

 その少女は空飛ぶ風船の束を持っていた。モノトーンの少女と、カラフルな風船がすてきな対比になっていた。

「きれいないい絵ですね」

 持ち主にハガキを返しながら僕は言った。ハガキの角が丸くよれているところをみると、結構古いもののようだ。

「ああ、あまり知られてない画家の絵なんだけどね。自分の娘をモデルに描いたものなんだって。私、この絵が大好きで、いつも持ち歩いているの」

「へえ」

 とくに怖い話とは関係なさそうだ。なんだかいっぺんに興味がなくなってしまった。

「それでね、私、その少女にあったことがあるの。たぶん、人間じゃなかったと思う」

「え?」

 たぶんそのとき、僕は露骨に嬉しそうな顔そしていたと思う。。

「その話……くわしく聞かせてもらえますか?」

 こんどは逆に彼女の方が不思議そうな顔をした。急に相手が興奮しだしたのだから、そうなるのも当然だと思う。

 僕は理由を説明することにした。

「実は怖い話を集めているんです。動画配信をしていて……」

「いいわよ、話してあげる」


 私が子供のころの話なんだけど。小学校の帰りにね、パン屋だったか理髪店だったか……開店のちょっとしたイベントをやってたの。そこで、うさぎの着ぐるみが風船配ってた。

 私はすごく欲しかったんだけど、ちょうど私がもらう前に風船が切れちゃってね。もう悔しくて悲しくて、ギャンギャン泣いてたの。着ぐるみの中の人も、困っただろうな。

 そうしたら、知らない女の子がやってきてね。この絵の通り、背中まである黒い髪を後ろで一つに縛っていてね。真っ黒いワンピースを着ているんだ。小さな雲みたいに、頭上に風船をたくさん従えていて……そうだなあ、なんだか不思議な感じの女の子だったな。

 にっこり笑って、風船を一つ私にくれたの。私はもう、嬉しくて嬉しくて。

なんで彼女がこんなにたくさんの風船を持っているのか、少し不思議に思ってもよかったんだけど。もらった風船も、開店イベントで配られたものにしては、店名とかプリントされていなかったし。

 とにかく、私は、大喜びで家まで風船を持って帰った。

居間に放して、天井に止まってるふうせんを眺めてしばらくニヤニヤしてたんだけどね。子供って飽きっぽいから、かくれんぼして遊ぶことにしたの。

 まあ、かくれんぼって言っても、兄弟もいないし、夕方だったから友達と遊べる時間ではないし、自分一人で隠れて、しばらくしたら出てくるだけなんだけどね。

 それでね、私は何を思ったのかガムテープを持って押し入れに入り込んだの。

 それで、内側からテープを貼り付けた。ふすまをぐるっと、囲んで開かないように。

 昔のことだからあまりよく覚えてないけど、中に入ったら外から明かりがもれてたから、そこからバレちゃうと思ったのね、きっと。

 それでね、隠れている間に、眠っちゃったみたいなの。ハハハ!

 それが、目が覚めたら、妙に静かなのよ。

 そういえば、テープを取って、畳の上に立ったら何かめまいがしたの。それで、ますます怖くなって、リビングに行ったの。

 そしたらね、アハハハ、倒れてるの! 父さんも、母さんも、ニ人とも! お父さんはテーブルにつっぷして、お母さんは床に散った紅茶のカップの破片のそばで。怖くって、しばらく動けなかった。そろそろと近づいていって、お母さんの肩を揺さぶってみた。そしたらぐにゃぐにゃゆれるだけで、まったく起きないの。

 ますます気分が悪くなって、立っていられなくなって気を失った。

 気づいたら病院だった。新聞の集金だったか回覧板だったか、誰かがやってきて気がついたみたい。

 それからしばらく、「両親はどうしたの?」って聞いたけど、お医者さんも看護婦さんも、何も教えてくれなかった。多分、私を気遣ってくれてたんだろうね。そんな気づかい、いらないのに。

 結果から言えば、父さんも母さんも死んでいた。毒ガスが原因で。

あの風船の中に、強力な毒ガスが入れられていたの。私が押し入れに入ったあと、なにかの拍子で割れたみたい。

 私は、めばりした押し入れの中にいたから助かった。でも風船と同じリビングにいた両親は……


 そう言って、彼女はまたアハハ、と笑い声をあげた。

「ああいう風船って、本来ゆっくりと空気が抜けていくものだからね。割れて、一気に毒を吸いさえしなければ両親も平気だったかもしれないけど」

 たしかに、ほんの少しずつ漏れるだけなら、部屋を出入りするときに自然に空気が流れるし、窓でも開ければ体調不良くらいですんだのかもしれない。

 もっとも、今ここで仮定のことを言った所で仕方ないけど。

「大きくなって、この絵の事を知ったときは心臓が止まると思った。だって、記憶にある少女とまったく同じなんだもの!」

 両親を殺した原因が、絵に描かれている。悪夢のようだったに違いない。その割には、その事を語る彼女は口元に笑みを浮かべているが。

「それでね、興味を持って、その絵の事を調べてみたの。その少女、画家の娘って言ったでしょ」

「ええ」

「その少女はね、家族と自殺しているのよ。自動車に排ガスを引き込んでね。つまり、この絵を描いた画家はもう死んでる。娘であるその少女も睡眠薬で眠らされた後、車内に運ばれ無理心中させられた」

 ニイッと女性は唇の片側を吊りあげた。そして言いたいことがわかるかしら、というように目配せをしてきた。

「もちろん、その少女が殺されたのは、あなたがその少女と会うより前だったんですね」

「その通り。あの少女は化け物になっちゃったのね。都市伝説の、毒ガスを振りまくマットガッサーみたいな化け物に。たぶん、家族に無理やり殺された恨みで」

「……。じゃあ、あなたは自分の家族を殺した化け物のハガキを、大切にメモ帳に?」

僕には女性が語った話より、その行動の方が異常に思えた。

両親が死んだことを語った時の、彼女の笑い声。さっきから、それがずっと耳に残り反響している。アハハ……

「だって、キレイだと思わなかった? さっきの絵」

「確かに」

彼女は、両親が嫌いだった?

そもそも、彼女の言うとおり、ああいった風船は、普通だったら少しずつしぼんでいくものだ。天井にそっと浮かばせていた風船が急に割れたのもおかしい。

両親が、割ったのではないか? 

子供が嬉しそうに持ってきた風船を。いや、子供が嬉しそうに持ってきたから『こそ』。

暴力をふるい、食べ物を与えないだけが虐待ではない。子供に「お前はだめだ」と言い続け、気に入ったものを壊し、けなし、着る服さえ制限することで、子供を支配しようとする親もいるという。

彼女がモノクロの少女の絵を持ち続けている理由。それは、感謝の印、なのでは。

 これは、まったく僕の勝手な想像だ。風船だって、室内の空気が動いて、棚の角か何かにぶつかって割れたのかもしれない。

「それじゃ」

そう言うと、彼女はバッグを肩にかけなおすと、小さくおじぎをして、どこかに去っていった。

こうして、僕の推測を確かめる術(すべ)はなくなったが、それはそれでかまわなかった。

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